I would like to be with you.
朝、嫌味を言われることがなくなった。戦場で功績を残していったのが実になったのか、淵師と郭嘉に支えられる間に、賈ク自身変わってきたからか。
他人から見たら前者だが、賈クにとっては後者だった。
「淵師殿には恋い慕う者がいるようだね」
「はぁ、そうかね」
賈クの執務室で、郭嘉は他人事のように言い放った。なんだ突然、と賈クは眉を寄せる。その表情を楽しむように郭嘉は笑みを深めた。
「おや、賈クにしては気にしてるみたいだけど」
「冗談が好きなやつだ、あんたは」
「それにしては、筆まで止めて……、あぁ、それがあなたの言ってた、淵師殿から頂いた筆かな?」
「言った覚えはないんだが、郭嘉殿」
自分の持つ筆を一瞥し、郭嘉を睨む。
馬鹿馬鹿しいが、一応郭嘉には言わないようにしていたのだ。しかし、何も言わずとも気付く男である。
郭嘉は視線を逸らし、ぼんやりと遠目で呟いた。それこそ、まさしくどうでもいいかのように。
「私の予想では夏侯惇殿かな。あぁ、でも賈クかもしれないね」
その言葉に、賈クは更に眉を寄せた。
なんて性格の悪い奴だと。わざわざ気にしていないふりをしているが、一言一言が突っかかる。
陳羣に嘘をばら撒く仕事はもう手伝ってやるものか、と心に誓った。
自然に、賈クは口角を上げる。そして、何事もないように執務に取り掛かった。
「あははあ、俺のことを好きになるなんてまずないだろう」
本音はそうであってほしい。
頭ががんがんする。
重たい腰をあげれば、世界がぼやけて見えた。何たってこんな思いをしなければならないのか。
そうだ、とぐるぐる回る脳内から記憶を呼び覚ました。
昨日は勝利の宴会を開いていたのだった。官渡の地にて、袁紹軍を負かしたのである。賈クと郭嘉の策略、その策略を実現させた将兵らのおかげだ。
宴会では郭嘉が張り切る中、功労者にあがる賈クは陰でのんびりと飲んでいた。ときどき視界に入る、淵師が夏侯惇と仲睦まじく飲む姿を記憶から追い出すように。
(まぁ、元から淵師を奪い合う気もないがね)
お互いの目が慈しみあっているのだ。
賈クは、気付けばその二人を見つめていたことに驚き、反面悔しく思う。
そしてもう一杯。また一杯、と酒を注いだ。既に限界であった。
終わりを迎えたのは、賈クが吐き気を抑えきれずに部屋にこもったからである。
なんて情けないのだと自分を責めた。とりあえず立ち上がると、向かう先は淵師の私室。かなり離れているため途中で吐かないか心配だったが、むしろ外の空気が肺を綺麗にしてくれるようだ。
ふらふらと歩く李典に適当に挨拶をしたりして、賈クは淵師の私室へ辿り着いた。試しに彼女の名前を呼ぶ。予想通りだったが、返事はない。
一応挨拶はしたのだ、と自分を言い聞かせると、賈クは静かに扉を開いた。
「淵師、起きてるか?」
彼女の匂いがする、なんて思ってしまい咄嗟に口を覆う。
(いいか、郭嘉殿の言うことを気にするな)
息を整え、咳払いを一つ。
賈クは寝台に見える淵師の方へ近寄ると、その場で綺麗な髪を広がせて眠る淵師を近くから見つめた。
白い敷き布に黒い髪がやけに綺麗だ。乱れた布団を直し、横にある椅子へ腰掛ける。ここは確か彼女が大好きな場所だった気がした。
「淵師、あんたは、」
そこで言葉を詰まらせる。
軍師は私情を挟まない。ここが戦場なら彼は失格だろう。
賈クは腕を伸ばし、淵師の髪を掻き分けた。触れる頬が暖かい。笑みがこぼれてしまった。自分らしくないのだ。郭嘉にでも見られれば、次の日曹操には笑い者にされ、夏侯淵や李典からは好奇の目が注がれる。
「淵師、」
「んっ……」
起きてしまう。賈クは急いで手を離そうとしたが、その手を掴まれ、顔をしかめてしまった。
「淵師、離してくれ」
「将軍……?」
違う名前を呼ばれた瞬間、敗北感が身体中を駆け巡った気がした。
賈クは手を強引に離し、その場から一歩後ずさる。
淵師が振り返る前に立ち去らなければ。賈クはそう思ったものの、なかなか好奇心と言うものがあり、動けずにいた。
もぞもぞと動く淵師は、静かに手を動かす。そのまま体をゆっくり起き上がらせると、彼女は横へ顔を向けた。
そこには、誰の姿もない。
「……賈ク、殿」
呟いた声は、本人には聞こえることはなかった。
乾いた空気に、ほんのりと香る賈クの匂い。墨と古びた書物の混じったあの感じが彼女は好きだった。
匂いに胸を痛めるなんて、と淵師は口元を覆う。やがて落ち着くと、そっと寝台の上で膝を抱えた。
(私はあなたといたいのです)
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