You do not need to remember.
車の鍵を閉めて、急いで校舎へ向かう。肌寒さに息を白くさせ、身を縮こませてしまった。おはよう、と生徒に投げかけられるたびに返事をしていく。
賈クはそれより、早く用務員室に駆け込んで、ストーブの前に温まりたかった。灯油の臭いがするその前で、既にバレているかもしれないのに大目に見てくれている台所で作った珈琲を飲みたい。
マフラーをして、革手袋をしているにも関わらずこの寒さだ。膝上のスカートだったり、指先のあいた手袋など、見ていて寒くなる。しかし、そんな格好の生徒が多い。
「賈ク先生、おはようございます」
「む、この声は」
などと言ってみると、笑う淵師が視界に入った。賈クの横に並び、どうやらこのまま用務員室までついてくるようだ。
内心緊張をしていた。顔は普段通りの悪どい顔だが。
「おはよう、淵師。早速だが教室に戻ろうか」
「い、嫌です! 今日は先生にいろいろ聞きたいことがあって」
まさか、実はキスしたことがバレているのか。賈クは身構える。
いや、もしそうだとしたら淵師のことだ、恥ずかしさでここに立っていない筈だ。ほっとする反面、残念だ。
「廊下は寒いね。用務員室で喋ろうか」
「はいっ」
そう言って、淵師はあの日のように、とててとついて来た。
感傷に浸るわけではないが、やはり自然と様々な思いが湧き上がってくるわけで。前世とやらでは、彼女は戦乱の世に紛れ淘汰されてしまった。仕方がないのだ。
賈クとしてみれば、戦場で顔を見ることなく亡くなられる方が嫌である。かつての友は、横で、亡くなってしまった。
(今じゃあ、あんな悪餓鬼になっちまったがな)
彼女も大概だ。
「で、話って何かな?」
「あの、先生が前に仰ってた、懐かしいという言葉が気になって」
「あははあ、あのことかい。あんたも随分気にしてたんだな」
笑いごとじゃない。
適当に放った言葉を覚えていてもらったのは嬉しいが、賈クにとってそれは説明しがたい話だった。
んー、と頭を悩ませる。
「先生は私のことをよく知ってます。怖いぐらい、癖とか……あっ、いえ、変な意味ではありません」
「……今はなんとも言えんが、とにかく一つ言えるのは、あんたは分かりやすい。癖とか、きっと俺以外にも淵師の友達は知ってるんじゃないか?」
「そうですかね?」
「あぁ。そうだ、郭嘉殿、あの人は淵師を気に入ってるから、俺より詳しいかもしれないね」
「はー……あの人が」
ちょっと待て、と賈クは思った。
頬を染められると、これはまた自分の敗北ではないかと。
今回ばかりは阻止せねばなるまい。面倒くさくて、打算とはかけ離れた情の一つだが、仕方ないのだ。
「話はそれだけかい」
「はい。……あ、そろそろチャイム鳴るので行きますね」
「あぁ、行ってらっしゃい」
女子にしては長めのスカートを揺らし、淵師は用務員室を出て行った。郭嘉殿が保健室常習犯なら、淵師は用務員室常習犯だな、と笑ってしまう。
それは嬉しいが、複雑だった。はたして、彼女に思い出を蘇らせるのが、本当に良いことなのだろうか。
淵師が一部だけ思い出してくれたらいいのだ。すべて思い出されたら、きっと彼女は別の男の方へ向かってしまう。
「夏侯惇殿、か」
随分と嫌な人が立ち塞がったものだ。
(あなたは思い出す必要がありません)
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