なつのわすれもの | ナノ
I swore to protect her.

がたがたと揺れる窓を、隅からしっかりと拭く。雑巾を洗うたびに水が染み込む。寒い。賈クは苦笑を浮かべた。
サボりたくて仕方がない。サボることは許されない。
最近、学院長が厳しいのだ。花粉の季節が近付いたせいで、郭嘉が花粉症にかかるかもしれないと思ったようだ。学院長はとんでもない郭嘉贔屓である。
それを賈クに命令したとき、曹操はくしゃみをしていた。

(窓を拭いたところで花粉は変わらんがねえ)

それより、部活をやめさせたらどうだろうか。



雑巾を絞り、並ぶ窓を次々と綺麗にしていく。高いところはどうにか背伸びをした。もう少し身長が欲しいものだ。
誰にも見られていないか辺りを見渡す。授業中だから、誰もいない。隣の教室は聞こえる範囲だと、夏侯淵が雨が降っているため、体育を中止して保健の授業をしているようだった。
がははと笑う声に、生徒も笑っている。彼こそ理想の教師だと、柄にもなく悟った。

(窓拭きを終えたら、あとは校門前の枯れ葉掃きか)

地獄が待っている。ゾッとした。



外でざあざあと雨が降っている。
淵師は授業中、外の景色を見つめていた。今は夏侯惇の古典の授業だ。長ったらしい言葉は聞いていられない。いっそ眠ってしまおうか。
雨の音に、静閑とした室内、程よい低音声をもつ教師の授業。そして、前日は深夜まで読書に耽ってしまい、睡眠時間はごくわずか。
うとうととしてきた意識に、寝ては駄目だと願掛けをする。重い瞼。この瞬間がとても気持ちいい。

「……い、おい、淵師!」
「痛っ」

しかし、その気持ちよさもあっという間に消えてしまった。
顔を上げると、夏侯惇が不機嫌そうに淵師を見ている。どうやら淵師は教科書で叩かれたようだ。
教室が静まり返る。笑ってくれる方が安心できた。隣の席の典韋も寝ている。

「足を引っ張るなら出ていけ!」
「わ、わわっ、ごめんなさい!」
「これ以上寝たら次はない」

お前も起きろ、と典韋の頭を勢いよくはたく。良い音が教室中に響いた。
大きな声で痛いと叫ぶものだから、夏侯惇は苛立っている。淵師は焦っている。それでも眠かった。

「あ、あの。私保健室行きます!」
「おい、淵師!」

このままでは夏侯惇の古典補習が悪魔のように笑って待っている。駄目だ、できない。補習なんてしたくない。
淵師が駆け込む後ろで、夏侯惇が彼女の名前を呼ぶ。しかし、既に教室から出て行っていた。くそっ、と舌打ちをする。

「……授業を続ける」

夏侯惇の重く、のしかかるその声は、生徒の睡魔を跳ね除けるほどであった。



何をしてるのだろうと自分でも思う。
ここ最近、授業をサボってばかりだ。苛立ちがあるわけではないか、ふとしたときに変なことを考えてしまう。何か大事なものを忘れているのではないか、と。
胸に突っかかる気持ち悪さ。ぐっと堪え、淵師は廊下を歩いた。

保健室に素直に行くべきか、いいや、院長室に遊びに行こうか。
うーん、と悩む。冷たい空気が淵師の体を刺した。

やはり保健室へ行こう。
歩いている間にだいぶ眠気は覚めたけど、きっとベッドで横になったら眠くなるだろう。
廊下を通る間、隣の教室から聞こえた夏侯淵の笑い声に、淵師にも笑みがこぼれた。

階段を降りて、歩いて行く。
見慣れた保健室の看板を見つけた。
がらら、と扉を開く。静まり返るそこには、先生はいなかった。

「ベッドお借りします……」

とりあえず言ってみる。
カーテンの閉まった奥の部屋を選ぶと、勢いよくカーテンを開いた。

「わっ、えっ?」
「おや、淵師殿ではありませんか」

そこには、一つ先輩の郭嘉がベッドに横たわっていた。上半身だけ起こし、読書に勤しんでいる。ぱたりと本を閉じると、郭嘉は淵師の方を見た。

「あ、あぁ……郭嘉殿? あっ、ごめんなさい。もし誰かと約束があるなら」
「ベッドには本来、一人で寝るものでしょう? それとも、一緒に寝たいのかな」
「い、いえ。結構です」

静かにカーテンを閉める。
淵師はぐっすり眠るつもりだったが、これでは気分がままならない。
やはり院長室へ行っていた方が良かったのか、と淵師は思った。

淵師は郭嘉から一番離れたベッドを選んだ。ポケットに忍ばせている音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳にさす。

家のベッドよりも気持ちよく感じるふかふかの布団。体の疲れもろとも委ねると、すぐに眠気はやってきた。

「淵師殿?」

淵師はカーテンが開いたことにも気づいていない。

「賈クに知らせてこようかな」

郭嘉は横たわる淵師を最後に一瞥して、すぐに出て行った。向かう先は賈クの元である。
淵師は、既に深い眠りについていた。



苛々する。賈クは生徒の捨てたガムを踏んでしまったとき以上に苛立ちを感じていた。
先ほど枯葉掃きをしていた賈クの元に、厚着をする郭嘉が悠々と現れたのだ。
淵師が高熱を出して倒れたらしい。そう言うと、郭嘉はすぐに校舎へ戻って行き、次は院長室へ行ったようだった。

用務員として止めるべきか。とも思ったが、賈クはそれ以上に焦っていた。
淵師は前、これも賈クの言う前世では、病でーー。
これ以上は考えることはなかった。

保健室の扉を慌ただしく開き、淵師の名を呼ぶ。手前のカーテンをまくると、そこに彼女がいた。
穏やかな寝息をたてて、眠っている。

「……ははあ、この俺が、郭嘉殿に動かされるとはね」

へなへなと、椅子に腰掛けた。
腕を伸ばし、淵師の横髪を掻き分ける。イヤホンを外してみると、もぞもぞと淵師は動いた。
それでも起きることはない。

「……あんたの寝顔を見てると安心するな」

ぽつり、と呟く。

「病になんか負けるなよ、淵師殿」

この声は、彼女には届いていない。
体を伸ばし、目尻にキスを落とした。ここまで我慢をしてきたのだから、これぐらいは許してほしい。切に願い、賈クは淵師から離れると、その手のひらを握り締め、困ったように笑みを浮かべた。



(彼女を守ると誓ったのだ)




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