なつのわすれもの | ナノ
Your motion is beautiful.


まだ賈クが曹操の元に降りてから間もない頃だった。朝から嫌味を物ともせず、彼は軍議に出る。嫌味の理由は明確であった。長子である曹昂、曹操の親衛隊の一員であり片腕の典韋を殺めたことだ。
賈クは自分に災いが降りかかることは、仕方がないことだと言い聞かせている。むしろ、嫌味で済まされていることが驚きだった。
きっと、曹操がなんらかの手を打っているのだろう。

おいしい筈が、朝から不快な思いをしたせいか朝餉はまずく感じた。共に食べていた郭嘉は気にすることないよ、と耳打ちをしてくれたが、賈クには何のことだか分からない。

決して、気になんかしていなかった。
むしろ、長子である曹昂を殺めたことでくすぶる戦火の匂いに焦っていた。



郭嘉にも仕事がある。
彼と別れ、賈クは己の仕事を済ましていると、ふと扉の向こうからか細い声が聞こえた。
しん、と静まり返る室内。扉の向こうの音に耳をすますと、だんだんと聞き取れてきた。

「賈ク殿、賈ク殿?」
「ああ、入ってくれ」

この声は誰だったか。
甄姫のように美しく響く声ではない。だからと言って蔡文姫のように穏やかで優しい声でもない。
扉の奥からぬっと姿を出した彼女は、淵師であった。

「あんたか。んー、夏侯惇殿の配下の」
「はい。淵師です。……あの、今お暇でしょうか?」
「見りゃわかる。暇さ」
「よ、良かった。よろしければ、休憩も兼ねて少し遊びませんか?」
「あははあ。これは驚いた。淵師殿は俺なんかと遊びたいってのか?」
「はい!」

賈クはまるで裏をかかれたときのように驚き、そして胸が高鳴った。
彼はまだ彼女に恋はしていない。この高鳴りは、淵師の言葉に素直に興味を抱いたからだ。

子犬のような尻尾が見える淵師は、賈クに案内されると、客用の椅子に腰掛けた。よく掃除された机に、持ってきた饅頭の乗った皿を置く。

賈クは暇であったが決して仕事を終えたわけではない。
しかし、目の前にこれほど面白い客がいるのだ。まして、夏侯惇配下の軍師補佐。彼女は確か郭嘉にも手ほどきを受けている。

「で、何で遊ぶのかな?」
「あ、はい。えっと、戦略を練って戦う……まぁ、知恵比べのようなものです」
「あぁ、あんたが郭嘉殿とやってるやつだね」
「ご存知でしたか?」
「まあね」

机の上の皿を端に追いやり、地図を広げた。思ったより小さい。
賈クは己の髭を撫で、その地図を凝視する。淵師は楽しげに駒を並べるものだから、賈クも楽しみになってきた。

「きっと賈ク殿は忙しいだろうと思っていたので、嬉しいです」
「んー、そこまで喜ばれちゃ悪くない。淵師殿、あんたは忙しくないのか?」
「あー……、まぁ、夏侯将軍は一人でも大丈夫ですから」
「全く、恐ろしい軍師様だね」

淵師のことはあまり知らないが、健気で純粋だと賈クは思った。

しかし、知恵比べを開始すると、その印象とは打って変わって激しい。軍師補佐だからと甘く見たら、そこいらの軍師では負けるかもしれない。
真面目で、真摯な眼差しで戦況を見定める。賈クも何度も己の顎髭を撫で、頭を悩ませた。



だが、勝利は賈クの圧勝である。
目の前で大きく息を吐き、背もたれに体を委ねて天井を見上げる淵師。
満足そうな顔だった。賈クもにやにやと笑いながら、その駒を集めている。

「いやー、面白かったよ! あんた、なかなかやるじゃないか!」
「うーん、途中まで良かったのに……」
「その若さでこの俺を一度ならず二度……んー、もっと悩ませたんだ。素晴らしいね」
「あ、ありがとうございます!」

そう喜び、にへらと笑う。
賈クも悪くない、と肩を竦ませると、畳んだ地図を淵師に渡した。
触れた手がとても暖かい。何度もお礼を言うと、そういえば、と淵師はお皿を机の真ん中に寄せた。

「お腹が空かれたでしょう。これ、今日の朝に作らせて頂いたんです。良ければ食べませんか?」
「ああ、頂くよ」
「冷めてしまって残念ですが、頑張ったんですよ」
「ま、食えりゃいいさ」

柔くふかふかな饅頭を掴む。確かに冷えてはいたが、淵師の手作りならば別にいい、と思ってしまった。
自分でもその考えに笑えてしまう。戦場で大きく変わる戦況を見ることまではいかないが、これもなかなか楽しかった。

ゆっくり饅頭を口に運ぶと、それに歯をたてる。
程よい甘みと肉厚な生地に賈クは驚いた。

「これは美味い。んー、これならいくつでもいけそうだ」
「わ、本当ですか?」
「嘘はつかない主義でね」
「やった、嬉しいです」

なかなか二人の光景はおかしく見える。かつて彼女の仲間であった人間を二人殺めさせた男と、まだ未来のある女が仲睦まじいのだ。
挟んで、饅頭のある皿。



「また来てくれるかい?」

饅頭を食べ終えると、満足感に流されてそんなことを言ってしまった。
淵師は一瞬驚いたが、すぐに笑みを作り、頷く。

「もちろんです」

賈クは不思議とその言葉だけで、心が満たされた。反面、不安もあった。
突然淵師が来たことはどうしてなのだろうか、などと考えてしまう。理由があるのではないかと。

頭を働かしていると、ふと淵師は口を開いた。

「……あの、今度朝餉も隣、いいですか?」

恐る恐るの言葉であった。

「……本当に?」
「周りの声が聞こえないぐらい、喋りますけど」

照れて淵師は俯く。
郭嘉なら襲っていたに違いない。賈クは内心謝りつつ、その顔を見つめた。

「それなら大歓迎だ。男たちのむさい声より、あんたの声を聞いてる方が心地いい。あー、と、変な酒飲み軍師がいるが、許してくれ」
「郭嘉殿ですね? 大丈夫です、避け方は熟慮してます」

くすくすと笑う淵師に、あははあと賈クはわらった。
彼女が部屋に来たことに理由はなかったのかもしれない。
これで嫌味もなにも聞こえず、彼女と仲間の声だけ聞こえるのだと思うと、賈クは心底安心した。

(……なんて、気にしてたんじゃあないか)

賈クは顎髭をまた撫でる。
彼にはまだ分からなかった。淵師が決して、嫌味に耐える賈クを笑わせようと彼に近付いたことを。


(あなたの行動は美しい)


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