My poor issue.
負けた。全身から打ちひしがれる体の痛み。いや、心が悲鳴をあげていると言った方がいいのだろうか。賈クは淵師から離れ、ただ瞳を揺れ動かし、人形のように動きを止める彼女を見つめた。長い沈黙が流れる。この時は外の風景も絵になったように、鮮やかに、囁くことはない。
「……私は、何を、」
「淵師……!」
名前を呼んだとき、淵師は既に立ち上がっていた。大粒の涙を賈クの手に落として。あっという間だった。扉から飛び出して、残されたのは賈クだけだった。この虚しさを埋める方法を知らない彼は、薄く笑って、身を深くソファーにうずめる。
「あははあ、参った参った」
ぽつりと意識せず呟いた言葉。これを境に、景色は動き出した。
* * *
淵師は見慣れた景色に囲まれながらも、湧き上がる感情に頭が痛くなっていた。誰もいない廊下。きっと職員室に行けば誰かに出会えるのだろう。もちろん、夏侯惇にもだ。しかし、不思議と会いたくはなかった。あれほど愛した男だというのに、それより淵師には罪悪感しか感じられないのだ。
職員室にいる夏侯惇はかつて愛した男で、この世界でも愛せば、きっとロマンチックで壮絶な人生だと語れるだろう。しかし、賈クが胸を一杯にしていた。
「私は、」
好きだった。今、学生としている私は。
「……いや、分からない」
顔を横に振った淵師は一人俯く。とてつもなく寂しい。誰かに会いたい。
とりあえずと歩き出した。すると、曲がり角でちょうど人と会ってしまった。なんてタイミングだ、と心の中で笑うと、顔をあげる。また、彼女の瞳が大きく開かれた。
「……夏侯惇ど、先生」
「淵師、何故ここにいる?」
顔をしかめ、夏侯惇は淵師を見た。
どっと鼓動が早さを増して動き始める。会うにはもっと時間が欲しかった。賈クがここにいるならどれだけ良かっただろう。そう考え出したところで、淵師はまた賈クのことを考えたのか、と自責した。
一向に口を開かない淵師に痺れを切らした夏侯惇はため息を落とす。
「……とにかくさっさと帰れ。お前、課題はやったのか?」
「……は、い」
「ふん、その調子だとやっておらんな。全く」
立ち尽くす淵師の横を歩こうとする夏侯惇を、淵師は腕を掴んで止めた。
「あの、先生……っ!」
「どうした……?」
「先生は、私を知ってますか?」
そう言ったときには遅かった。あまりにも唐突すぎた。目の前で驚く夏侯惇は変な物でも見るように目を細めている。鋭い眼光に怯んでしまう。下手すれば前の典韋のように殴られるのではないかと。
しかし、夏侯惇は鼻で笑い口角をあげると、淵師の頭を掻き乱すように乱暴に撫で回したのだった。
「当たり前だろう。淵師は古典の赤点常習犯だからな。……ほら、早く帰って勉強しろ。冬休み明けのテストで八割とらんと欠点だぞ」
頭から手を離し、以降淵師の方へ一切振り向かず廊下を歩いていった。残されたのは、今回は淵師だ。
(そうだ、覚えてないんだ)
呆気にとられてしまったが、それが当たり前である。淵師は廊下で薄気味笑うと、涙で床を落とした。
* * *
廊下を歩く夏侯惇は、いつの日かの説教を思い出していた。
(郭嘉の言う通りだったな……)
冬休み前、院長室でくつろいでいた曹操と、それを見張る夏侯惇の元に郭嘉はやってきていた。言われた言葉はいまいち理解できないものだった。
『淵師殿のことをよく知っていてほしい。いずれ彼女は夏侯惇殿に何かを問いただすでしょうから、ね』
そう言われ、とりあえず郭嘉の言葉を聞き流していたが一応心に留めていた。
そして疑問に思ったことを問う。
「この時代、お前ぐらいだろう。人に殿などとつけるなんて」
「おや、そんなことはありませんよ。賈クに、……淵師殿も言います」
自信満々に笑む郭嘉の顔を、夏侯惇は未だに覚えている。初めて見た勝利の表情。学校では遅刻に授業放棄常習犯、おまけに先生から新入生までの女性に手を出す問題児だが、あの顔はよく知っている気がした。
肩を竦ませると、光に満ちた院長室へ足を踏み入れた。
(愚かな主張)
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