The girl wept for him.
淵師が泣いた。賈クはぎょっとして、彼女の肩を掴むとその体が彼の胸を叩きつける。「いだっ」とだらしなく悲鳴をあげてしまったが、そのまま床に尻餅をつき、押し倒されてしまった。
(これは、なんという状況なのやら)
男が女に押し倒されるなんて。仮に、淵師は生徒だということが分かっているのだろうか。先ほどコンビニから帰ったのち、熱を出した淵師だった。しかし、帰ることはせず、冷蔵庫にいれてあった冷えピタを貼って、彼女は賈クが普段座るソファーで寝ていたのだ。
すやすやと寝息をたてて、穏やかな表情で眠るのを見て安心したのが間違いであったと賈クは後悔する。机を挟み、もう一つのソファーに座りながら雑誌の続きを読んでいただけだった。いきなりそれを取られ、今に至ったのだ。
「おい、淵師」
「ーーわかりません」
「はぁ、何がだ?」
ーー分からないものはわかりません、と淵師はぽろぽろと涙を賈クの頬に落としていく。全く、なんて迷惑な生徒だと思う反面、賈クの胸はきつく締め付けられた。
淵師は今、誰を思っているのか。きっと、前世で深く愛したあの男のことだろう。見ているだけでつらくなった。ここで変な行動を起こせば何か変わるかもしれないが、好きな女の涙だけで手一杯だと賈クは心内で笑う。
「とりあえず、退いてくれ」
賈クは淵師の肩を押すが、あいにく床に敷かれているのは男の方だ。柔らかな髪が頬をくすぐる。欲情に掻き立てられず、あくまで先生として、ここは淵師を止められなければならない。
「ほら、立った立った」
「……はい」
淵師は賈クの膝の上に腰をおろしたが、おかげで上半身を起こすことはできる。膝上て馬乗りする淵師と向かい合うと、賈クはポケットからハンカチを取り出し彼女の涙を拭った。
「ん、ありがとうございます」
「気にすんじゃないよ」
ごしごしと強く拭くと、淵師の頬が饅頭みたいに膨らむ。不意にかわいいと思って、すぐにそんなことはないと打ち消した。
拭い終えると、ハンカチを淵師に渡す。彼女はそれをきつく手のひらで握ると、震える唇が涙のように濡れているのが見えた。CMでよく見るキスしたくなる唇とはこれか。
(落ち着け、こんな餓鬼に欲情なんざするもんじゃない)
淵師は、ようやく口を開いた。
「何か忘れている気がするんです。もっと遠い昔、賈ク先生とあと、郭嘉さん……。いいえ、この学校にいるみんな、を」
「そうだな、それには俺は何も言えん」
「目を閉じると、誰かを愛してたという気持ちだけが胸に溢れてきて、でも今の私が愛するのは違うから、……だから」
熱のせいか、気持ちが昂ぶっているせいか、顔が赤い。額に手をやると、そこはとても熱かった。
「とにかく今は寝ることだ。んー、冷えピタがもう剥がれちまってるね」
「横にいてくれますか?」
「当たり前だ。あんたはほっとくと悪化する奴だろう」
病みたいに。賈クにとって淵師は病原菌のようだった。
「ま、早く良くすることだ」
そう言うと、淵師から強引に足を引き抜き、立ち上がる。手を差し出すと、彼女はおずおずと受け取ってくれた。引っ張ると、淵師は体を起こす。少しふらついたが、賈クはしっかりと支えてやった。
ソファーに寝かせ、上から薄い生地の布をかける。それだけではもちろん寒く、ストーブを目の前に置いた。
「さ、おでこ出して」
「はい」
ぺたりと、ひんやりとした冷えピタを貼る。突然の冷たさに顔をしかめる淵師の頭をわしわしと撫でると、ほんの一瞬、嬉しそうに頬がほころんでいた。その表情が好きだ。
うまく伝えられないこの関係がもどかしいと、賈クはソファーに腰掛け考えた。何のために淵師の記憶を呼び覚ますのか、よく分からなくなってくる。つらい記憶の方が多いかもしれない。
俺は、もしかしたらしてはいけないことをしているのではないか。
賈クは、決意を揺らがせてしまった。
「先生、おやすみなさい」
「……あぁ、ゆっくり休んでくれよ」
ただ、淵師は確かに日頃から、初めて会ったときから何かを抱えてるような、裏を感じた。思い出したいのに思い出せないもどかしさを賈クは知らない。彼女に会ったとき、すべてがフラッシュバックされたのだ。
「おやすみ、淵師」
淵師にかける布がずれ落ちるのを見て、静かに腰をあげて直してあげた。
(少女は彼を思って泣いた)
<< >>