その次の日、郭嘉殿に避けられている気がすることに気づいたのは、朝の軍議を済ました頃だった。おはよう、と言ってもこちらをちらっと見て返事をされただけ。最初は急いでいるのか、と思っただけだった。 しかし、朝餉を食べ終え彼の元へ近付いたとき、私は郭嘉殿に颯爽と避けられてしまった。 名前を呼びたくなったが、どうも呼べない自分がいる。寂しそうな背中が見ていられなくて、私は彼が振り返ったことに気付かず、その場から立ち去ってしまった。 昨日のことが関係しているに違いない。 顎を引かれ、彼と見つめあったわずかな時間。思い出すだけで頬が上気していく。 置かれた状況が最高だったら、きっと笑えていただろう。 * * * 鍛錬を済まして、今日の予定はないはずだから私は一人で昨日の続きをしていた。静閑な室内には、冷たい風がよく通る。鍛錬により火照った身体を冷ます絶好の機会だ。 ぱちん、ぱちんと駒を置く。 (違う。これじゃ駄目だ) 一旦すべての駒を手のひらに集めた。 (ああもう、こうしたらまた郭嘉殿に見抜かれて攻められる) 郭嘉殿は、ここにいないというのに。 なんだか勝手に考えて、泣きそうになってきた。こんなに自分が女々しいだなんて、苦笑を浮かべる。目尻に溜まる涙を拭うと、それがぷつりと糸を切ったように、どんどん涙がこぼれてきた。 叶わないことは分かっている。 前向きにしていた思考が、どんどん負の気に落ちて行く。本当に郭嘉殿は忙しかったのかもしれないのに。 椅子に腰掛け、次第におさまってくる涙を拭った。ぼんやりと引きつる目で駒を眺め、あの日の郭嘉殿のように指先で駒を転がす。 泣いてしまうと、自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。郭嘉殿に想いを伝える決心も湧き上がってくる。もし、今彼に出会ったら堂々と言えそうだ。 そう思い、肩を竦ませる。 まさか、現実になるとは思っていなくて。 「ーー淵師、いる?」 がた、と物音を立ててしまったが、咄嗟に机の下に隠れてしまった。机の下から、彼がこちらに歩いてくるのが見える。 やはり郭嘉殿だった。見慣れた靴に、聞き慣れた声。胸の鼓動がこれまでにないぐらい叫んでいる。 「……どこにいるのかな、淵師」 これは気付かれているのだろうか。 わざとかと言いたいぐらい、郭嘉殿はゆっくり机の周りを歩いている。 「あなたに伝えたいことがあるのに」 あなた、と言われてしまった。あまりにも驚いて、頭を机にぶつけてしまう。同時に郭嘉殿はぴたりと止まり、小さく笑う声が聞こえた。 「ほら、出ておいで」 「……はい」 郭嘉殿がいる方とは反対の方に出る。 椅子をどけて、机から飛び出した。膝についた汚れを払うと、眼前で笑みを浮かべる郭嘉殿を見つめる。 「どうして、泣いてたのかな」 「そ、それは、その……」 突然の質問に口ごもる。 それさえもあっさり見抜かれるだなんて。郭嘉殿にわからないことは何もないのではないか。 「私のこと、だとしたら謝らせてほしいな。淵師、ごめんね」 「どうして……。郭嘉殿は関係ないです、私が勝手に……!」 「関係がないのも、案外悲しいものだよ。私のために泣いてほしい、なんてね」 はは、と郭嘉殿は笑った。 その笑顔はどうも乾いていて、普段の暖かさは感じない。 「郭嘉殿、そういえば伝えたいことって?」 「……あぁ、それは、もう知恵比べをやめようって言いに来たんだ」 「……え?」 「時間がとれなくてね。もう遊んでいられる時期じゃない。……それに、私はあなたに想い出を与えすぎた」 「時間ですか……。で、でも想い出って?」 自然と彼に近寄ってしまった。 徐々に近寄ると、郭嘉殿の前で私は肩を震わせ立ち尽くす。 「私はあなたに、あなたが私をこう思ってたらいいのに、って一昨日の夜言ったのは覚えてるかな?」 「はい、もちろんです」 「あれの答えを教えてあげるよ。……好きだよ、淵師」 「郭嘉殿……!」 ぽろぽろと涙が落ちていく。 あっさりと与えられた優しい言葉。郭嘉殿の顔は、一瞬微笑んで、今は困ったような表情を浮かべていた。 ゆっくり身を引き寄せられ、私も答えようと背中に手を回そうとする。 「私は、郭嘉殿が……」 そうだ、言える。 続きの言葉は、彼が私のことをそう思ってくれてたらいいのに、って言葉だ。そして、それを思ってくれていた。 「ーー好きです」 「……ありがとう、淵師。はは、今までの私だったら、このまま相手を捕らえてしまうだろうね。でも、捕らえられない」 「郭嘉殿?」 「……私はあなたの願いを叶えてあげられないから」 そう言うと、郭嘉殿は私から身を離した。 あふれる涙を彼は親指で優しく拭うと、彼は微笑を浮かべる。 その顔を、私は両手で包んだ。訳の分からない郭嘉殿は不思議そうに私を見つめ返す。 「私を見てください、郭嘉殿」 「淵師、見てるよ」 「ち、違います! ……そ、その。心からです!」 「はは、可愛いことを言うもんだ」 手のひらに彼の手のひらが重なる。 冷たくてひんやりとした指先を、つい温めたくなった。 「……最後に、私と知恵比べしてください」 「……うん」 「勝ったら、一つ願いを聞いてください」 「もちろん」 言ってやった、と思い私は彼の頬から手を離す。郭嘉殿の手のひらと共にゆっくりおろし、そして冷たい彼の手を両手で包んだ。 さっきとは違う、とても穏やかな笑みを彼は浮かべていた。見惚れてしまう自分に鞭を打つと、さっと彼から手を離そうとする。 「待って。あと少し、あなたを感じたいな」 「……はい」 逆に私の両手が包まれた。 片方の手はとても暖かく、もう片方は対照的に冷たい。それがなんだかおかしくて、私は笑った。 「可愛いね、淵師は」 「そ、そんなことないです」 「恥らう顔もとてもいいよ」 「何を言ってるんですか。ほら、最後の知恵比べをしますよ!」 自分で言っておいて、少し悲しい。 最後の知恵比べ。きっと、これからもずっとしていくものだと思っていたから、あまり実感はわかない。 私が普段座る椅子に腰掛ける。郭嘉殿は、私の前に座った。散らばった駒を集める。 もう、見栄を張らずに自分の思うように策を披露すると決めた。願いはまだ整っていない。それでも、だいたいは浮かんでいた。 「淵師が赤の駒、か。うん、久しぶりにいいね」 「頑張って……勝たせていただきます」 「はは、楽しそうだ。私もなんだか楽しいよ」 そう言って、ぱちんと駒を置く。 (知恵比べ三日目) |