戯言スピーカー | ナノ



 

「今回は私の勝ちだね、淵師」

卓上に広げる地図に並べられた駒を崩し、郭嘉殿は口角を上げた。挑戦的な笑みにどきりとしてしまったが、私は勝気な表情を浮かべ、小さく唸る。

私たちは今、いわゆる知恵比べをしていた。大きな戦いが控えているわけではない。なんとなくという気持ちで始めたことだった。
それが思った以上に面白く、その知恵比べを最初に始めて以来、既に幾月も経っていた。

数え切れないほど勝敗を決し、笑いあったり言葉を交わし合ったりした。それらを含め、私は、僅かに郭嘉殿に恋情を抱き始めていることにも気づいた。
想いを伝える予定はない。何より相手が郭嘉殿ということに戸惑いがあったのだ。

口説き落とした女人は数知れず、酒を好み夜は宴席に積極的に参加をする男の人。対して私は、宴席に出ても酒にすぐ酔い自室に運ばれるのがほとんど。遊びの知識は全然ないようなありふれた軍師補佐だ。

勝ち目がないことは、経験の浅い私にもすぐわかる。



「うーん、最近ちっとも郭嘉殿に勝てないです」

なんででしょうね、と苦笑を浮かべ椅子に腰をおろす。正面に立つ彼も同じように腰掛けると、足を組み、体を少し前に傾ける。机に肘を置き、崩した駒を手のひらで転がした。

「あなたは純粋すぎるから。でも、そこがあなたらしくて、とてもいいところだ」
「真っ直ぐ……ですか?」
「平たく言えば、ね。地形も、季節の変わり目の特徴も理解しているのに、どうも淵師は卑怯な策を使いたがらないように感じるよ」

駒をこと、と音を立てその場に置いた。
不敵な笑みを浮かべる郭嘉殿からは余裕が見られる。一度目を逸らし、また彼の瞳をとらえた。

「続きはまた明日……でどうかな?」
「い、いいのですか?」
「もちろん。こんな麗しい御仁に子猫のような目で見られたら……むしろお願いさせて頂きたいぐらいだよ」
「こ、子猫……ですか」

これはまた随分な表現だ。そう思うが、口にはしない。
それにしても、明日も約束をされたなんてとても嬉しいことだった。普段彼は忙しいから、きっと暇を持て余している今だからこそのことだろう。

ぽかぽかと胸が温まる中で、彼は立ち上がった。卓上には地図と、駒を置いたまま。私も続くように立つと、郭嘉殿の後ろに並んだ。突然彼が振り返ってきて驚いてしまう。
どうしたのだろうと見上げると、普段通りの笑みを浮かべて私に問いかけた。

「今宵、宴があるようだけど、淵師は出るようだね」
「はい! 郭嘉殿もですか?」
「うん、私にとって宴は最高の舞台だから。あなたがいるなら、尚更楽しみだよ」
「お好きですものね、お酒に……」

それ以上言葉を続けることはなく、私は一歩前に出る。失言だった。自分の聞きたくないことでもあるし、何より彼からしたら「そんな印象しか持たれていない」と思えることだ。気付かれないように、息を整える。
ふう、と息を小さく吐いたところで、背後から伸ばされた綺麗な指先は、私の腕を掴んだ。

「お酒に、何かな?」

振り向かされ、腕を上げられる。
妖美な笑みには、またしても余裕が見られた。それが悔しいのに、かっこよくも思える。彼は身体中から妖術を放っているのではないか。

「お酒に……月です。ほら、今日は天気もいいですし」
「……うん、そうだね。でも私は、淵師はそのことを言いたいように思えないな」
「く……」

腕から放された手のひらを、頬へ滑らせる。恋人でもないのに、よくこんなことができるものだ。ただでさえ素敵な人に、頬なんか触られたら落ちそうになる。
いや、私はもう落ちているのだ。腹いせに、まるで答えを知っているかのような郭嘉殿に、正直に言ってやった。

「女人が好きかなと思って」
「あはは、そうだね。否定はできないよ。それにしても、それは嫉妬かな?」
「ち、違います」
「一つ教えてあげよう。私は淵師みたいな人が特に好きだ。愛らしくて、素直で、それでいて努力家な淵師」
「……へへ、ありがとうございます」

そう言われると、嬉しい。本心からこみ上げる笑顔で答える。郭嘉殿も困ったように笑顔を見せると、私の頭を撫でて、そっと横を通っていった。

残り香がとても柔らかい。ぼんやりとする頭に、鞭打つかのように頬を叩く。そうだ、明日のためにもまた計算を積まなくてはならないのだ。
前を真っ直ぐ見て、私は室内から出て行く。廊下はとても寒い。手をこすり合わせながら、ゆっくりと自室へ向かった。


(知恵比べ一日目)