小説 | ナノ
第三話___着物___



「そうだわ!ちょっと古いのだけど、うちに私のお祖母様のお着物があるから、その櫛と一緒に着てみない?」


その提案に私はポカンとしてしまい、飲んでいたほうじ茶を危うくこぼしそうになった。

「いやいやいや!そんな、お祖母様の大事なお着物を着させていただくなんて、そんな!あ、それに、この櫛もいただけません!」

私はここぞとばかりに櫛を貰えないこと、これ以上施しを頂くことは忍びないことを必死になって伝えた。

「そんなに遠慮しなくていいのよ。使われず大事に仕舞われているよりも、着る資格のある人に着てもらったほうがいいわ。それにその櫛も、あなたに受け取ってもらわなければ、お祖父様がお泣きになるわ」

では早速、というようにおばあさんは私の手を握りながら立ち上がり部屋の外へ引っ張る。
もちろん私は抵抗せずされるがままだが、納得がいかないので口は動かす。

「先程も、この櫛は私のものだと仰っていましたよね?今も、着る資格のある人など…どういうことなのですか?」

まるで、この櫛やおばあさんのお祖母様のお着物が私のものであるかのような物言いに戸惑う。
おばあさんに「着てみれば分かると思いますよ」と笑顔で返され、これは大切なお着物と櫛を身につけさせて頂かない限り開放されないだろうな、と早々に諦め、口を閉じた。

________


しばらく歩いて、ようやく部屋に着いた。
そこはこのお屋敷の中心に当たるお部屋であると歩きがてら説明されてはいたが、確かに他の部屋よりも広い。そして、よく日の入る部屋である上に風通しもよい、私のこんな所に住みたいという願望が詰まっているお部屋だった。

「ここが、かつてお祖母様のお部屋だった場所よ。お祖父様のお部屋でもあったのだけれど、お祖父様は若くして亡くなられたから、お祖母様のお部屋という印象が強いわね」

「今は孫の兄のほうが使っているんだけどね」と説明しながら、おばあさんは何の躊躇もなく真っ直ぐに着物が入っているだろう箪笥を開け始めた。

え、孫20歳よね?男の子の部屋に入るってこと?え、了承とか取らなくていいのかな?
というか、大学生の男の子の部屋にお祖母様のお着物があるって、なんかどうなの…
お兄さんや、嫌なことは嫌と言っていいと思う…

私は現部屋の主を聞いて非常に複雑な気持ちになり、部屋の前で固まってしまった。
すると、箪笥を弄っていたおばあさんが、「どれも似合うけど、やっぱりこれがいいわね」と一番上にあった着物を取り出した。

「さ、これを着て…ふふっ、大丈夫よ。うちの子たちはこの屋敷全体が自分の部屋かのように過ごしているから。ただ、あの子はこの部屋を気に入って宿題とかをここでやったりしているだけよ」

私の反応から、何を考えているのかを察したようで、おばあさんはおかしそうに笑った。そしてこちらへこいと手招きされた。
対する私は、まあ宿題をしたりするだけなら、と恐る恐る足を踏み出した。

部屋に入ってから、なんかお兄さんの私物っぽいもの多くない?本当に宿題とかだけ?とか思ったりもしたが、もう入ってしまったのだから仕方がない。
後で謝っておこうと、嫌がられる覚悟を決めた。

「着物の着方は分かる?」
「はい。実は私、自宅では常に着物を着て過ごしているんですよ」
「まあ!そうなのね!なら、私は台所で準備を始めておくから、着替え終わったら来てくれる?」
「わかりました。…本当に、私が着させて頂いてもよろしいのですか?」
「いいのよ、もちろん。そこに姿見があるから、使って頂戴ね。台所は出て右に行った所にあるからね」
「はい、わかりました。では、着させていただきますね。貴重な機会をありがとうございます」
「楽しみにしているわね!」

そう言って、おばあさんは襖を閉めて歩いていった。
残された私は、とりあえず落ち着くために深呼吸をした。
が、それは緊張をさらに助長させるものとなった。

部屋に充満する、柔軟剤のようないい香りを胸いっぱい吸ってから、ここは年下の大学生の部屋だということを思い出したのだ。しかも私の好きな香りときたら、もう赤面どころではすまなかった。
そうして私は、少しの間しゃがみこんで動悸と戦わなければならなくなった。

私は早く着替えてこの部屋を出ることが、この動悸から解放される一番の近道であると結論付け、早々に着替えに取り掛かった。
着物はとても綺麗で、私の好みであった。このような着物は今の時代、なかなか手に入らない趣向を凝らしたもので、一目でとても気に入ってしまった。
しかしこれは人様のもの。
手早く着替えて、おばあさんに見せて直ぐにお返ししなければ、と気持ちを引き締め、着替えを再開する。


着物に袖を通した時、暖かく、優しい何かが、ふわりと私を包み込んだような気がした。
周りを見ても何もなく、障子も襖も閉まっていて風が入ってくるはずのない部屋で、何が…と思ったが、怖くはなかった。むしろ心地よく、胸が高鳴る。
私は不思議と、それを知っているような気がした。


着物に着替えるのは簡単だった。いつも着ているため、いつも通りに、いや、かなり丁寧にはしたが、サッと着替えることができた。
しかし問題はここからである。

そう、櫛だ。
櫛を身につけるには、髪を結い上げなければ櫛が綺麗に映えない。
私はどうしたものかと考えたが、ここは精神を鍛えている人たちばかりがいらっしゃるし、大丈夫であろうと思い直し、先程見たおばあさんの髪型に似せて、髪を結い上げた。
そして、あくまでもお借りしている櫛を挿し、姿見の前に立った。



鏡に映った自分の姿を目にした途端、時が止まった。

そこには、前世の私が映っていた。

そうだ。
私はこの格好を、この着物、この櫛を、見たことがある。
これは、あの人が、私の夫が求婚する際に贈ってくれた、とても大事なものだ。
私は嬉しくて嬉しくて、この姿見の前で長い間着物と櫛を身につけた自分を見ていた。

そうだ、私は。
私は、この屋敷を知っている。
この部屋ももちろん知っている。
なぜならここは、夫と私の部屋である。あの頃のまま残っている。変わらずに。

幼い頃から婚約者として育った私は花嫁修行としてこの屋敷で共に住んでいた。
その時はこの隣の部屋で寝起きしていたが、元々ここは夫の部屋で、時間のある時はここで夫と義弟と遊んだし、たまに3人で一緒に寝て、義父から怒られたりもした。


「そうだ。ここは、私の、大切な…」


ぽたり、と涙が溢れた。
溢れ落ちたその一雫は、前世と今世を隔てる大きく、深い何かに波紋を作る。
波紋は大きく広がり、やがて端まで到達した時、前世と今世の流れを結ぶ道となった。


そうして私は、櫛を見たときに感じた“忘れている何か”を、全てを思い出した。

胸が張り裂けそうな悲しみ。
そして、その悲しみを上回るほどの、たくさんの、たくさんの幸福な思い出を、全部。



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