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 店に流れる流行り歌や人の笑い声、グラスがぶつかる音やなんかをどこか遠くに聞きながら煙草を吹かす。ぼんやりしていたのかもしれない。突然「なぁ」と同意を求められ慌てて煙草を灰皿に押し付けた。

「あぁ、悪ィ。聞いてなかった」

 そう応えると、向かいに座っている男はちょっと意外そうな顔をしてからクスリと笑う。

「ま、飲みなさいよ。ホレ」

 男は安っぽい徳利の首を摘まんでプラプラと揺らしながら猪口を出せと催促する。蜜柑と同じ色をした灯りに白い指がほんのり染まって見えた。猪口に残った酒をグイッと呷ると、それを差し出す。男は頬杖を突いて愉しそうに笑いながら俺の猪口に酒を注ぐと、そのまま自分の猪口に残りの酒を注いだ。そして徳利を高く翳して「もう一本!」と店の主人に声をかけた。なんとなく手持ち無沙汰で、ふと目に入ったたっぷりと薬味が乗っかった鰹の刺身を生姜と大蒜と醤油でいただく。たたきも美味いがそのまま食っても美味い。

「へぇ〜、鰹ってぇとたたきって思ってたけど刺身でも美味ぇのな」

 モグモグと刺身を咀嚼しながら独り言みたいにそう言った男とパチンと視線が合うと「そう思わねぇ?」と訊いてきたので「あぁ、そうだな」と短く答えた。ちょっと素っ気なかったかと思ってチラリと見遣ると男は気にするふうもなく酒をコクリと口に含んだ。

 そして、男はそれきり黙って、でも機嫌よさそうに、食って飲んでいる。何か気の利いたことでも喋らないと、と思いかけて、いや違うだろと思い直した。そもそもなんでこんなことになったんだっけと何本めかの煙草に火を点ける。

 今朝、近藤さんが部屋にやって来て何を企んでいるのか、「トシ、今日は非番だろ? せっかくだから出かけてこいよ」と、白々しい台詞でやたらと外出をゴリだけにゴリ押ししてくるので面倒になって屯所を出たのが昼前だった。趣味らしい趣味があるでなしアテもなく街をブラブラ歩いていると、目の前に座るふわっふわしたこの男に出くわした。

「よう。今日はあの暑ッ苦しいのは着てねェのな」

 そう言って親しげにピラピラと手を振る。俺とお前はそんな仲だったかと思ったが口には出さずに「非番だからな」と応えた。面倒くせェと内心で思いつつ煙草を咥える。男は「ヒマを持て余してんなら相手してやろうか? 俺ァ『万事屋』だからよ」とニヤリと笑う。俺は煙をため息と一緒に吐き出してから「金持ってねェだけだろ?」と訊き返した。

「あ、バレた? まぁまぁ、いいじゃないの。慈善事業だと思えば。どーせカネ余ってんだろ? たまには有効に使えよ」

 男は呆れて見ていた俺の視線など気にならないらしく「そうと決まれば」とグイッと俺の腕を引いた。

 この街はいつもと変わらず騒々しく雑然としている。春は終わりを告げたが、この街でそれを知らせてくれるのは陽射しの明るさぐらいだが、行き交う人は皆、自分のことに夢中で季節のことなぞお構いなしだ。暑いか寒いかなんて何を着るべきか程度の問題でしかないんだろう。自分もその一人だなとこっそりと苦笑いしてから自分には不似合いな眩しい光に目を細めた。

「何してんの?」

「……いや、別になんでもねェ……」

 立ち止まった俺によこす不思議そうな男の視線に裏はなさそうだなとなんの根拠もないが思った。

「あっという間だなぁ……」

「何が?」

 呟くように言ったその言葉に思わず訊いた。

「春が逝っちまうのは」

 そう言って男は空を見上げた。そして、そうだなと思って新しい煙草に火を点けた。僅かに湿り気を帯びた風が吹き抜けて行った。空は青く輝いていた。





「そろそろ帰るか。一日中引っ張り回されてオメーも大概飽きたろ?」

 そう言ってから「ハイ、これで終ェな」と酒を注ぐ。長皿には鰹の刺身が二切ればかり残っていて「食わねーの?」と訊いた男に「食わねェ」と返すと、男は「じゃ、俺、食うよ」とヒョイヒョイと箸で刺身を摘まんで口に放り込んだ。箸を持つ男の指はふくふくとしていて白い。そのきれいな指は器用そうだが、神経質そうではない。適当な、よく言えばおおらかそうなその男らしい指をしている。人となりっていうのはあちこちから滲み出るもので、その指は男について雄弁に語っている。顔を突き合わせては喧嘩をしているがそうイヤなヤツではないことは俺だってわかっている。そういう指だと思った。

「ごっそーさん」

 そう言って、悪びれることなく悪戯する子供みたいに笑いながら戸を開け暖簾をくぐる男の背中を見ながら財布から札を出す。店主に「うまかったぜ」と声をかけると「ありがとうございます」と笑いながら釣りをくれた。

 すっかり日が暮れた空は群青色をしている。あいにくと月はなくてポツリ、ポツリと瞬く小さな星をふたつばかり見つけた。最後の煙草を咥えて火を点ける。男がこちらを見てふわりと笑った。その笑みにチクリと胸が痛んだが、その理由はわからなかった。男が「そろそろかな」と小さく呟くと「副長〜!」と自分を呼ぶ声が聞こえてきた。その声に思わず眉を寄せ厭な顔をした自分を男はクスリと笑う。

「副長。お迎えに来ました」

「はぁ!? つうか、山崎、煙草切れた」

「あぁ、ハイハイ、買ってあります。旦那、ありがとうございました。これ、局長から……」

 山崎が懐から白い封筒を取り出した。俺は何がなんだかわからなくて二人を黙って眺めている。

「お代ならコイツから貰ったからいらねーよ」

 俺を指差しながら返事をした男に山崎はちょっと驚いた顔をして「旦那ァ〜」とボヤくように男を見る。

「それはオマエらんとこの事情だろ? 俺はカンケーねぇもん。俺はオマエらんとこに雇われただけだし、だったら誰からお代貰ったっておんなじだろ?」

「そうですかァ? 違うんじゃないかなぁ〜」

「そのカネで美味い酒でも買って帰れよ」

「はぁ……」

 話が見えねェと思っていると男が俺を見た。白い指が伸びて来て煙草を取られる。

「オメーは愛されてんなぁ」

 何の話しだと訝しむ。

「誕生日なんだろ?」

 そう言えばそうだった。男は俺から奪った煙草を咥えると小さな箱らしきものを懐から取り出す。そして箱の中の煙草らしきものを俺の口に咥えさせた。

「今日はもうこっちにしとけば?」

 甘い匂いが鼻を擽り、舌に甘さが伝わる。男は「ハイ」と箱を俺の手に握らせた。その手はちょっとひやりとして柔らかかった。

「じゃあね、土方くん。今日は楽しかったよ。サンキュー」

 男はひらひらと手を振り帰って行った。俺はじわじわと広がっていくチョコの甘さを舌に感じながら手のひらのシガレットチョコをじっと見つめた。





(了)

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