*

 そう昔のことでもないのだけれども懐かしく思うのは、ここがそこからはずいぶんと遠くだからかもしれない。窓の外にチラチラと見える小さな星の瞬きのどれかひとつが懐かしいあの場所だったりするのかしらと思って、そんなことを思ったりする自分に苦笑いした。窓の外に広がる暗い空間を眺めながら思い出すことと言えば、頭に落ちてきたゲンコツがすごく痛かったこととか、繋いだ手が温かかったこととか、抱きついたときにフワリとやさしい匂いが鼻を擽ったこととか、思い出すべきことはもっと他にあると思うのだけれども、どれも思い出とは呼べないような一瞬の記憶ばかりだったりする。でも、思い出というものは、本当は突然フワリと舞い降りて来る小さな記憶のことで、忘れたりしない出来事は思い出とは呼ばないのかもしれない。



―――思い出は淡くてやわらかい。二度と戻って来ないものだと知っているから懐かしくて、そしてほんのちょっとだけ哀しい。



 ***



 なぜだかわからないけれど目が覚めた。風が窓をカタカタと小さく揺らす音が微かに聞こえる。小さく開けておいた戸の隙間から漏れる光はないから明日はまだ来ていないらしい。目を閉じて夢と現を行ったり来たりしていると、遠慮がちな足音が聞こえて瞼に弱い光を感じる。あぁ銀ちゃんだなぁと思って閉じていた目を開けた。戸の隙間からは無機質な白い光が漏れていた。銀ちゃんの背中を思い浮かべながら再び瞼を閉じたけれどちっとも眠れそうにない。ゴロリと寝返りを打って仰向けになると押し入れの天井の剥き出しのベニヤをぼんやりと眺めた。

 起きようか起きまいかと考えながら思い出したのは今日の昼下がりのことで、仕事もないし姉御が休みだから帰ると言った新八を「このシスコン野郎、そんなんだからオマエは童貞アルヨ」とからかった。新八は「うるせーよ。童貞、バカにすんなよ」と新八のクセに余裕の顔で笑ってから「そういうんじゃなくてまだ死にたくないから台所を姉上から死守したいだけだよ」と私にため息を吐いてみせた。確かにそれはそうかもナと姉御の手料理を思い出す。でも、そんなふうに言う新八はどこか嬉しそうだったりもして、結局シスコンじゃねーかヨと心の中でつっこんだ。

 銀ちゃんは出かけていなかったし、帰る新八と一緒に万事屋を出た。新八は兄貴ヅラして暗くなる前に帰るようにとか、銀ちゃんが帰って来そうにもなかったらババアのところでごはんを食わせてもらえとか言う。面倒くさいなぁと思いながら「わかってるネ。うるさいヨ」と答えると、真面目な顔で「大事なことだよ」と返された。ごはんなんてどうとでもするし、私が強いことぐらい知ってそうなもんなのに新八は口うるさい。そして、最後は決まってこう言う。

「神楽ちゃん、君がたくましくて強い女の子だってことは知ってるけど、そういうんじゃないんだよ。子供は暗くなる前に家に帰るものだし、ちゃんとしたごはんを食べるべきだよ」

 ちょっと年上だからって兄貴ヅラすんなヨと思いながら、そんなことを言う『兄貴』はいなかったなぁなんてことを思い出す。暗くなる前に帰って来いとか言う親もいなかった。でも、そういうバカ兄貴とかパピーが悪いってワケではなくて、それはそんなもんで、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかでもなく、順番をつけたりだとかする必要もないんだと思う。兄貴は兄貴だし、パピーはパピーで、新八は新八で、銀ちゃんは銀ちゃんなんだろうなぁなんて思った。

 一応、新八の意見はソンチョーしてやることにして、手を振り「また明日」と別れた。銀ちゃんを探すつもりなんかなくて、いつもの公園に行ってマダオで遊んだり、寺子屋から帰って来た近所のガキと遊んでやったりして時間を潰した。

 風がビョウッと吹いてその冷たさに空を見上げると、夕暮れが近づいていることに気づく。誰かがそろそろ帰ろうかなと言うと、他のみんなもそうだなと言う。口々に「じゃあね。また明日」と言いながら小走りに駆けていく。駆けていくガキどもに「またなーっ」と手を振っているとカァという鳴き声が聞こえた。昼間はマヌケに聞こえたカラスの鳴き声は、今はなんだか淋しく聞こえる。銀ちゃんは帰って来てるだろうか。帰るも帰らないも銀ちゃんの勝手なんだけど一緒に暮らしてる自分としては一応は気になる。銀ちゃんが帰っているかいないかが気になるのは淋しいからじゃなくてつまらないから。淋しいんじゃない。つまらないだけ。そう、銀ちゃんがいないとつまらない。

 帰ろうか、やめようか、迷いながら歩き出す。足元に見つけた小さな石ころをポンッと蹴った。辺りはもう薄暗いけど空にはまだ光が残っていてほんのりとピンク色に染まりつつある。プカリ、プカリと浮かんだ雲がいつかのお祭りで買ってもらったフワフワの綿菓子みたいだなと思った。綿菓子は口に入れるとあっという間に溶けて、その甘さだけが口に残った。次の朝にはいつもの風景に戻っているお祭りとおんなじだなぁと思った。

 地面をじっと見ていた顔を上げると通りの向こうによく知っている後ろ姿を見つけた。ほんのちょっと肩を竦めて歩くいつもの背中に嬉しくなって大きな声で名前を呼ぶ。その人は振り向くとほんの一瞬だけ目を見開くとそのまま細めてちょっとだけ笑って、ちょっと呆れたみたいな顔をして「おー」と手を挙げた。

「銀ちゃん!」

 行き交う車をもどかしく思いながらもう一度その名前を呼ぶ。

「慌てんな。轢かれっぞ」

 こちらを向いた銀ちゃんはやっぱり呆れてるみたいに笑っている。車の流れが途切れたところで走って通りを渡ると「銀ちゃん!」と飛びついてその腰に手を回した。銀ちゃんはポンポンと私の頭を撫でる。

「オメーは何やってんだ? サッサと帰ェよ。日ィ暮れてっだろうが」

「銀ちゃんを探してたネ」

「嘘つけ。遊び呆けてたんだろうが」

「ありゃ、バレたアルカ?」

「バレバレだ」

 銀ちゃんは困ったふうな顔をしつつ、でもどこか楽しそうにそう言った。銀ちゃんの顔をジッと見上げていると「なんだ?」と訊くので「べッつにィ〜」と答える。銀ちゃんは「阿呆か?」とコツンと小さなゲンコツを落としてから「新八は?」と訊いた。姉御のことを話して「アイツはどうしようもないシスコン野郎ネ」と言うと、銀ちゃんは「まぁそう言うなよ。アイツにとっちゃたった一人の姉ちゃんなんだからよ」とやさしい顔で笑った。

「ねぇねぇ、銀ちゃん。肉まん食べたいアル」

 すぐそこに見えたコンビニを指差すと、銀ちゃんはちょっとだけ間をおいてから「仕方ねぇなぁ。今日だけだぞ」と店に向かって歩き出した。思いっきり喜んでみせると銀ちゃんは「カンタンなヤツだなぁ、オメーは」と苦笑いしている。肉まんだけだと念押しされわかっていると応える。でも、店のドアを開けるとホカホカとあったかそうなおでんが置いてあってすごく美味しそうだ。ツンツンと遠慮がちに銀ちゃんの袖を引っ張って「おでん、美味しそうダネ」と言うと、銀ちゃんは私を見て「だなぁ」と応えた。そして、天井を見上げてから「新八いねぇし、おでん買って帰るか?」と訊くので「うん」と答えた。

 おでんをぶら下げてコンビニを出た。こぼさないようにそっと歩く。もう片方の手に持った肉まんをパクリと食べた。

「美味しいアル」

「あぁ、美味ェな」

 日の暮れた藍色の空に細い月が浮かぶ。心細げな月に寄り添うのはピカピカと光る星だ。

「銀ちゃん」

「んー?」

「おでんが冷めないうちに早く帰るネ」

「急ぎ過ぎてこぼすなよ」



 むくりと起き上がって、戸を開ける。灯りが漏れている台所を覗いて「銀ちゃん?」と声をかけた。銀ちゃんはクルリと振り向いて「どうした? 怖い夢でも見たか」と笑う。「見てないアル」と答えて「何してるアルカ?」と訊くと、「お前もココア飲むか?」と訊き返すので、「飲むヨ」と答えた。

 銀ちゃんはゆっくりと鍋で牛乳をあっためる。私が銀ちゃんの隣で何かのオマケでもらったおそろいのマグカップにココアをスプーンに山盛りで2杯ずつ入れると銀ちゃんが「もう1杯」と言う。「仕方ないなぁ。今夜は特別アルヨ」ともうひと匙ココアを掬ってやると「サンキュー」と銀ちゃんが笑った。牛乳からユラユラと湯気がたつ。火を少し弱くした。グラグラとする直前で火を止めるとマグカップに牛乳を注いだ。クルクルとスプーンで混ぜるとココアの甘ったるい匂いが鼻を擽る。マグカップを持って、フーッフーッと息を吹きかけてからおそるおそるココアを飲んだ。銀ちゃんの作ったココアはあったかくて甘かった。



 ***



 元気かしらと遠くを見た。きっと元気にしているだろう。そのうちフラリとあそこへ行けばまた会えるはず。ポンポンと頭に置かれた手の重さだったり、微かに触れた指だったり、なにげなく交わした言葉だったり、すべてが愛しくてせつなかった。あれはもしかして恋だったのかしらと思う。あの頃のように「銀ちゃん」と呼べば、きっと銀ちゃんもあの頃のように「んー?」と面倒くさそうに応えてくれるに違いない。でも、私が呼ぶ『銀ちゃん』の響きはあの頃とは違っている。それは淋しいことのような気もするけれど、悲しむことではないと思う。



―――人は変わり続ける。思い出は思い出でしかない。





(3939)

[ 5/53 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -