*

「暑ィな〜……」

 溜め息混じりに思わずそう呟いてから足を止め、木々の隙間から見える真っ青な空とそこにモクモクと湧き上がる真っ白な入道雲を見上げた。太陽が南中するまでにはまだちょっと時間はあるが、太陽は既にだいぶ高い位置にまで動いていてカッと強く照りつける白い光が濃い影を作る。ダラダラと滴り落ちてくる汗をグイッと拭って、再び嘆息してから歩き始めた。道の脇の今朝咲いたらしいツユクサはすっかり萎れていた。木々の作る濃い影と風に揺れる草は涼しげに見えるが、生温い風がまとわりついてくるばかりでちっとも涼しくはない。木陰になっている急な坂道を抜けると橋の欄干が見えて、ザアザアという水の流れる音が聞こえてきた。陽射しを遮るもののない橋の上で足を止めると、川辺で水遊びをしている子供らの姿が見えた。

 端っから期待なんかしてはいなかったが、あの馬鹿は本気で何もしない。日長一日、つまならそうに本を読んでいることが殆どで、そんなにつまんねー本ならそんなモン読んでねぇでなんかやれよと思うが、やられたらやられたでさらに面倒なことになることがわかっているので黙っている。つうか、自分だってやりたくないが誰かがやらねぇとどうにもなんねぇから仕方なしにやっているだけで、とそこまで考えてやめた。今さらあの家に世話をしてくれる誰かを入れるのもいろいろと面倒くせぇし、その面倒もそもそもはあの馬鹿のせいな訳だけども言い出したらキリがねぇ。あ〜ぁと声に出さずにボヤき、日に当たって熱くなった頭をボリボリと掻いた。近所のジジイに貰ったダサい麦藁でも被ってくりゃよかったと後悔した。

 この辺りでは唯一の菓子屋に入ると、すっかり背中が丸くなったばあさんが座って店番をしている。俺が葛饅頭を持って帰りたいと言うと、「おや、今日は食っていかないのかい? 珍しいね」と言いながら大きめの器に気休めだろうけどと葛饅頭と一緒に氷を多めに入れてよっこらせと渡してくれた。ばあさんが「あんた、独りモンじゃあなかったんだねぇ」と笑うので「あ〜…まぁな〜」とお茶を濁すように答える。そして「器はいつでも構わないよ」と言うばあさんに「今度は食いに来るから」と手を振り店を出た。

 しばらく歩いてやめときゃよかったなぁと右手にぶら下げていた袋を左手に持ち替えた。チャプンと微かな水音がして「おっとやべぇ」と立ち止まった。いつの間にか大合唱していた蝉の鳴き声に気づく。いつもは何かのついでにちょっと寄って馬鹿には内緒で一服する菓子屋にわざわざ出向いたりしたのは思い出さなくてもいいことを思い出してしまったからで、思い出さねぇとそれはそれでまた問題があったりするからだったりもする。田舎のばあさんが作る愛想もなんもねぇ菓子なんざあの馬鹿の口に合うとも思えねぇが知ったこっちゃねぇ。

 上ったり下ったりを何回か繰り返してようやくたどり着いたこじんまりとした『我が家』とかいうヤツにホッと息を吐いた。日当たりのいい庭には向日葵が植えられている。綺麗にしつらえられたその花はピンと真っ直ぐに太陽に向かって咲いている。で、思い出したりする訳だ。花育てんならついでに野菜育てろっつったら「ンなモン、俺の趣味じゃねェ。育てたけりゃテメェでやれ。あぁ、但し俺の邪魔はすんなよ」と言った馬鹿の姿を。マジでなんとかならねーかと思ったが、麦藁被って胡瓜だの茄子だの南瓜だのを世話してる馬鹿の姿はちょっと怖いかもしれないから諦めた。

「この暑い真っ昼間にどこほっつき歩いてんだ? 馬鹿か、テメェは」

 その声に振り向くと涼しげな顔をした馬鹿が立っていた。汗をかきヨレヨレになっている俺とはえれェ違いで、なんかもうムカつくとかそんなんはどうでもよくって、何をどうしたらそんな涼しい顔でいられんのか、ある種の尊敬の念すら湧いてくる気がする。ま、気がするだけで、ホントのところは面倒でどうでもよくなってるだけだと思う。

「…あ〜……ちィっとばかしヤボ用があったんだよ。で、ついでにコイツを買って来たからあとで食おうぜ」

「なんだ?」

「ばーさんが作った葛饅頭」

 馬鹿はウンもスンも言わず一瞬だけ笑うと家の方へと戻って行った。

 ***

 夏の高い陽射しは家の中までは届かない。そして、仄暗い部屋を通り抜ける風はほんの少しだけひんやりしている。開け放った窓の向こうには眩しい世界が広がっていて、ジジジジと絶え間なく聞こえてくる蝉の声をどこか遠くに聞く。黒文字を口に咥え、さっきの葛饅頭を乗っけた皿を行儀悪く手で持って馬鹿の部屋へと向かう。足でちょちょいと襖を開け、こちらに背を向け座っている馬鹿のちょっと後ろに座ってから手に持っていた皿を畳に置いて咥えていた黒文字を添えた。

「ソコ、置いたぜ」

 そう言ってから自分の分の皿を取った。葛の白く濁った半透明の皮は濡れてツルリとしていてそれに包まれた餡が透けて見える。ばーさんの作った少しいびつなその饅頭がなんとなく淫靡なものに見えてきて、それをごまかしたくて黒文字で葛饅頭をブスリと刺した。

「ずいぶんと愛想のねェ見てくれだなァ」

 馬鹿が皿を手に取りばーさんの葛饅頭を眺めながら面白そうに笑う。俺が食いながら「食わねーなら俺が食う」と言うと、馬鹿は「そうは言ってねェだろ」とまた笑ってから葛饅頭を口へと運んだ。食い終わってゴロリと横になっていると、食い終わったらしい馬鹿が「まァ、悪くはねェなァ」と皿を置いた。俺が「へぇ〜」と意地悪く返すと、馬鹿も意地悪く笑い「悪くねェに決まってんだろ? テメェが一番わかってんじゃねェのか?」と返してきた。

「は?」

「なんだ。わかってねェのか。ま、それはそれで面白ェか」

 コイツと会話すんのは面倒くせぇなぁと窓辺に目を遣ると今にも咲きそうな向日葵の蕾が一輪差してあった。

「なぁ、ソレ、咲いてねぇけど」

「咲いちまったらつまんねェだろう。コイツはこれから一枚一枚花びらが捲れながら咲いて行くんだぜ。咲いちまったモンを眺めるより楽しみがあんだろ」

 馬鹿はホントに楽しみにしてんだろうなぁって顔で向日葵を眺めている。こういう瞬間にふとこの馬鹿は片っぽしかねぇ目ン玉でどんな世界を眺めてんだろうなぁとか思う。コイツはどんなに腹が減っていても花の美しさとかそういうモンを選ぶんだろう。

「そんなモンか?」

 俺がそう言うと、馬鹿はそれには応えずに「晩飯には焼き茄子が食いてェなァ、銀時」とニヤリと笑った。コイツは自分の話をわかってもらう気もねぇし、人の話を聞く気もねぇなと呆れながらよっこらせと起き上がり、「他にはなんかねぇのかよ」と訊くと「テメェに任せる」と素っ気ない返事が返って来た。

 空になった皿を持ち部屋を出ようとして、あぁそうかと思う。咲いてしまったら終ェか、と。思ったよりも膨らみのある向日葵の蕾は黄みがかった緑色の萼に包まれていて、捲れた萼の隙間から黄色い花びらが覗いていた。あれがゆっくりと開いて、庭で見たあの花を咲かせて、そして散る。来たときと同じように襖を足で閉じながら「阿呆だなぁ」と呟いた。

 ***

 茄子が焼けていく様を時々茄子をひっくり返してやりながら眺める。日が傾いて少しだけ涼しい風が吹くようになった。蜩のカナカナカナという鳴き声が辺りに響く。濃い紫色の茄子の皮がすっかり焦げて黒くなったら冷水に浸けて皮を剥いてやるのだが、たっぷりと水分を含んだ茄子が焼けるにはだいぶ時間がかかる。アイツは面倒くせぇモンが好きだなぁと溜め息を吐いた。じっと待っていると茄子の皮はだんだんと乾いて紫色の皮に茶色の網の跡がつき始めたが、茄子の中に火が通るまでにはまだまだ時間がかかる。網の下のチロチロと燃える赤い火を見ながらもう一度溜め息を吐いた。

 手間と時間がかかる割には皿に乗っけてしまうとえらく地味だなと出来上がった焼き茄子と赤くなった指先を交互に眺めた。まぁでも、そんな手間ひまなんかは皿を出されたヤツには伝わらねぇ方がいい。そんなんが伝わっちまったら皿の上に乗っかったモンの美味さがわからなくなっちまう。食って美味けりゃそれでいい。

 わざわざ呼びに行くのも面倒で「できたぜー。食わねーのかー」と馬鹿の部屋に向かって声をかけると、「うるせェ」と馬鹿が出てきた。そして、馬鹿は当たり前のように座って、当たり前のように酒が注がれるのを待っている。なんつうか、本当に仕方ねぇんだろうなぁと酒を注いでやりながら思う。自分の分も注いでからクイッと飲み干しハァと息を吐いた。馬鹿はその様子を面白そうに眺めていたが、自分もクイッと飲み干し箸を持つと、焼き茄子の皿に箸を伸ばした。しっかりと火を通した茄子は出汁を含んでいて、ぼんやりとした部屋の灯りに照らされてトロリと鈍く光って見える。

「美味ェなァ」

「まぁ、美味ェ季節だもんなぁ」

「そうだな」

 窓からは涼しい風が入ってきて虫の音が聞こえる。昼間は聞こえてこない川のせせらぎが途切れ途切れ耳に届く。

「『夏河』か」

 ぼそりと聞こえた。昼間、橋の上から見た川を思い出す。川の水は冷たくて気持ちいい。草履を手に持ち水遊びをした。キラキラと眩しかったあの頃をなんとなく思い出した。

「釣りにでも行くか」

「釣り竿ねぇけど」

「作りゃあいい」

「晴れっかな」

「晴れるだろ」

 明日は草履を手に二人で夏河を越える。



(了)

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