03

 長谷川がいろいろあって仕事を辞め、妻を残し家を出たのはだいぶ前のことだ。妻から何通もの手紙をもらったし、自分も何通かのクリスマスカードを送った記憶がある。

 出て行くとき離婚届にハンコを押してくれても構わないからと言いながら、こっちに来ると妻に連絡を取り自分の連絡先を知らせたのは自分が弱い人間だからだと思う。

 一応、自分から辞めたことになっていたから退職金も出た。こっちに来るのにいくらか使ったが、なんやかんやでそこそこの金額はあったし、妻の実家からの援助もあるはずだからアイツは生活に困ってはいないはずだ。手紙から困っている様子は伝わって来ない。ただ、いつ帰って来てくれても構わないからと、体に気をつけてと、そんな言葉で手紙は締めくくられている。

 店のドアを開け『準備中』のフダをかけるために外に出た。サングラス越しに見える空は少し暗い色をしているけれど、きっと爽やかな水色をしているに違いない。吸ったら死ぬぞとデカデカと脅し文句が印刷された煙草の箱をポケットから取り出し火を点けた。

 日本の空を思い出そうとしてみたが、思い出したのは少しくたびれた妻の後ろ姿だった。なんとなく目頭が熱くなった気がしたのは煙が目にしみたからだろうなと思った。

「ちわー。長谷川さ〜ん」

 間延びした声がする方を見ると、日本人にしてはかなり変わった見てくれのアルバイト店員がいた。

「あ、銀さん。やべー、カギ開けただけでなんもやってねぇよ」

「しっかりしろよ〜。アンタの店だろ〜」

「わりィ。わりィ」

 銀さんは、ある日、フラリと店にやって来た。家を探しに来たと言っていた。結局、銀さんがこの辺で家を借りることはなかったが、「アンタさ〜、コレ、店潰れるよ。だってマズいもん。俺が作ったのがうめぇよ」とバッサリやられ、この銀さんに厨房を任せることになった。

 そろそろビザが切れるらしい銀さんを、ワーホリでなくちゃんと就労ビザ取って共同経営でこの店をやらないかと誘って、というか、泣き落としてみたが、やんわりと断られた。

「ん〜。俺、帰るわ〜。やっぱさ〜、ここじゃねぇなぁって思うし。アンタも帰りなよ。奥さん、待ってんだろ? 言ってたじゃん。俺がいなくなったら潰れるよ、ココ」

「ひでぇなぁ〜」

「ホントのことだろが。待ってくれてんだろ? 帰った方がいいって。こういう商売は向いてねぇよ、アンタにゃ。それにさ〜、なんか、いいじゃん。待ってくれてる人間がいるなんてよ。申し訳ねぇと思いつつもちょっと嬉しくね? そういうの」

「銀さんにはいねぇのかよ? あっちに待ってる人は?」

「ん〜。あそこにはいねぇかなぁ。みんな好き勝手に生きてんもん。だから、帰りてぇのかねー。待つ側になりてぇのかもなぁ、俺ァ」

 そう言って笑った銀さんの横顔を見て、帰ろうかな、と、少しだけ思った。

 そして、仕事に息苦しさを感じながらもアイツと暮らしていた頃を思い出して、ああいうのを幸せっていうのかもなぁと恥ずかしいことを考えた。

 結婚してすぐだったと思う。

 アイツの父親の知り合いだと言う胡散臭いオッサン、松平だとか言ったはずだ、と、たまたま食事を一緒にすることになったことがあった。

「結婚ってのはめんどくさいけどいいもんだろ〜」

 カタギだとは到底思えないそのオッサンはだるそうに煙草をふかしながらそう言った。

「カミさんと年頃の娘がいてローンやら何やらあって、このオッサンの肩に全てが懸かってるけどなぁ〜。イヤイヤ、悪くないぜぇ〜。ちっとも悪くないぜぇ〜」

「……」

「お前さん、結婚したてだろ? もちっと待ってくれりゃあ、オッサンが仲人やれたのによぉ〜。誰かいねぇかなぁ〜。それぐれぇしか楽しみもねぇんだよ〜。息子みてぇに可愛がってるヤツがいるんだけどよ〜。まだかなぁ〜」

 そして、オッサンはさんざん愚痴り続けたあと、

「惚れた女ってのはよぉ〜、いいよなぁ〜…」

と、最後にポツリと言った。

 確かにそうかもなぁと今頃になって思う。

 ここの空は広すぎる。

 野菜の入った箱をよっこらせと店内に運び込みながら、今度は懐かしい街の空を思い出した。



(長谷川)

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