*

――――俺がその人に始めて会ったのは5年前のことで、今でもその場面はお気に入りの映画のワンシーンのように鮮明に覚えている。

 扱いにくい子供だった俺を先生のところへ連れて行ったのは母親だった。扱いにくい子供だという自覚はあった。そのへんの馬鹿な幼稚園児たちと自分との違いは明らかだったし、白々しい笑顔を張り付かせわざとらしい猫なで声で俺に「晋助くん」と呼びかけ両手を広げる教師にもうんざりしていた。

 ガキが一様にスキンシップを望んでいると思ったら大間違いだ。大多数のガキはそうだろうがそうじゃない奴もいる。なんにでも例外はつきものだ。つまり俺はその例外だ。テキスト通りに子供が反応し、発達するとは限らない。さして人生経験も積んでない学校を出たばかりの自称子供好き姉ちゃんたちはそのことに気づいていないことが殆どだ。

 先生は、というとちょっと違っていた。「この家には本ぐらいしかないけど君の好きにしていいよ。困ったことがあったら遠慮せずに言いなさい」と、それだけしか言わなかった。俺は一風変わったこの大人がえらく気に入り、「いつでもおいで」の言葉に甘えて我が物顔で先生の家に入り浸った。

 何度か通い先生の家にもすっかり慣れて来た頃、いつものようにチャイムを鳴らしカラカラと引き戸を開け「晋助です」と声をかけると、「は〜い」と出て来たのは先生ではなくその人だった。

 目に入ったのは黒のスラックスだった。ゆっくりと顔を上げると白い開襟シャツの半袖から白い腕がスラリと伸びていた。その腕は夏だというのに日に焼けもせず真っ白で、母親が大事にしているなんとかいう人形を思い出した。近所の中学の制服だなと思いながら、目線を腕から襟元へと移すと腕よりもずっと白い首筋が見えた。たらりと汗が首を伝い開いた襟元からチラリと見える白い胸へと吸い込まれて行く。俺は透明な汗の滴が胸を伝う様を見ながらゴクリと唾を飲み込ん……





「…おい、クソガキ、テメーなんちゅう作文書いてんだ!?」

 頭上から声がして晋助が鉛筆をくるりと回してから顔を上げると『その人』が見下ろしていた。その人・坂田銀時は初めて会ったあの時と同じような制服姿で、少し前屈みになり卓袱台の上の晋助の作文を覗き込む。腰にあてた手は相変わらず白い。あの時はスラリと中性的だった腕は程よく筋肉がつきルネサンス期の大理石の彫像を思わせた。

「ンだ!? うるせーな。銀時。どんな作文書こうと俺の勝手だろうが。宿題なんだよ。『ぼくの・わたしの大切な人』っつうクソ面白くもねェテーマのな」

 晋助がそう答えると、銀時は「よっこらせ」と斜め向かいに座り原稿用紙を手に取った。そう大きくもない手のひらの先に長く器用そうな指がついている。晋助が面白くなさそうに頬杖をつきため息を吐くと、その長い指で晋助の額をピンと弾いた。

「だいたい5年前っつったら、オメー、5歳だろうが。5歳児がゴクリと唾を飲み込むかよ。てか、フツー父ちゃんか母ちゃん、せめてじいちゃんばあちゃんのこと書くんじゃねぇのか。それに俺のことは『銀時お兄さん』と呼べ。年上は敬え」

「…ふん、」

 「ふん、じゃねぇだろ」と白い手はクシャリと晋助の頭を撫でる。晋助はチラリと自分を撫でるその手の主を見やった。柔らかそうな銀色の髪がフワフワと揺れる。そして、前髪の隙間から赤っぽい眸が覗いていてじっと自分を見ている。あの日、玄関先に出てきた銀時に思わず見とれたのは事実だ。忘れてなんかいない。はっきりと覚えている。晋助は大きくため息を吐いた。

「ガキが何いっちょまえにため息なんか吐いてんだよ」

 銀時の手はまだ晋助の頭に置かれたままだ。そう大きくはないと言っても自分の手に比べればそれはずいぶんと大きい。

「…ガキじゃねェ」

 晋助がぼそりと不機嫌そうに小さく言葉にすると、

「なぁに言ってんの。ガキだろ」

と、銀時は大人の顔をして笑った。

 目の前にいるコイツには何にも伝わってなんかいないんだとつくづく思う。ガキが玩具やぬいぐるみを気に入るみたいに俺はテメェのことを気に入ってる訳じゃねェんだと言ったところで今みたいに笑われんのがオチだろう。どうしたら伝わるというのだろうか。俺がガキじゃなければ、大人になれば、そうすれば伝わるのだろうか。そうは思えない。

 晋助は手に持っていた鉛筆を卓袱台にカタリと置いて、漏れそうになったため息を飲み込んだ。

 ポンポンと晋助の頭を軽く叩くと「おやつ食うだろ?」と銀時の手が晋助の頭から離れた。「食う」と晋助が頷くと「んじゃ。待ってろ」と銀時は満足そうに笑ってから台所へと立った。その背中を見送りながら晋助は今度こそ盛大にため息を吐いた。



 *



 晋助は夕食も風呂も済ませると、牛乳の入ったコップを片手に自分の部屋へと戻った。母親の「あら、晋ちゃんたら冷たい牛乳はお腹壊すわよ」の言葉は無視する。なんとしてでもあと数年のうちにせめて身長ぐらいは銀時に追いつき、追い越したい。

 「オメーは頭はいいのかもしれねーけどガキはガキらしくしてろよ。可愛くねーぞ」と、そう言って銀時にヒョイと担がれたことを思い出して晋助は舌打ちした。あの時、銀時は自分を担いだまま「まだまだ軽ィなぁ。お前ちゃんと食ってんのかぁ」とからかうので「すぐにテメェよりデカくなっておんなじことしてやるからな。覚えとけよ」と言い返せば、「おー、頼もしいじゃねぇの」と兄貴面して楽しそうに笑っていた。銀時にとって自分はいつまでもたっても初めて会った幼い子供で小さな弟分のままなんだと思い知らされた。

 牛乳の入ったコップをコトリと机に置いてから椅子に座り、机に置かれたライトをカチリと点ける。晋助はフーッと息を吐いてから牛乳をゴクゴクと一気に飲み干した。

 ハァと息を吐いてから晋助は先生の家から借りて来た三島の『花ざかりの森』を手に取った。パラリとページを捲り字面を追うがちっとも言葉が頭に入って来ない。

 「ガキじゃねェ」という自分は十分にガキで、「ガキじゃねェ」と言いながらそれはただ銀時に追いつきたいからだけで、くだらない大人になんかなりたくないとどこかで思っている。イライラするのは何者にもなれていない自分に対してだ。

「…やべェ…」

 晋助は舌打ちをすると腹をさすりながら部屋を出た。

「あら? 晋ちゃん、おトイレ? ほらぁ〜、お母さんの言ったとおりじゃない。親の言うことは素直に聞くものよ」

 そう声がして晋助がチラリと母親を見やり「うるせェなァ」と呟くように言うと、「あらやだ晋ちゃんたら反抗期? 銀ちゃんに訊いてみようかしら。だったらケーキでも焼こうかしらねー」と晋助の言葉を気にするふうもなくひとり喋っている。構ってられるかとトイレへ向かおうとすると、後ろから「持って行ったコップちゃんと下げてねー」とのん気な声がした。



 *



 太陽は沈んでしまったが空にはまだ光が残っていて、西の空に浮かぶ筋状の雲はピンク色に染まりその隙間から覗く空は淡い水色をしている。そのまま東に目線を移すと雲の色は薄くなり空は青みがかった紫色をしていた。辺りはオレンジ色の光のベールに包まれており仄暗い。ポツリ、ポツリと街灯が灯り、家々にも明かりが灯り始める。帰りの時間を知らせる『椰子の実』のチャイムが鳴り響いてから30分ほど経つ。そろそろ学校から帰って来た銀時がこの公園の前を通るだろう。

 牛乳が駄目なら物理的に伸ばしてやると半ばヤケクソで晋助は公園の鉄棒にぶら下がっている。なんとしてでもデカくなりたい。銀時よりもデカくなりたい。中身に関しては少々足りない銀時を超える自信はあるから、というか既に超えている自信があるから、あとは目に見える形でデカくなりたい。そうでもしないとあのフワフワの馬鹿にはきっと伝わらない。

「チクショー!!」

 声に出して叫んでみた。叫んだところで何も解決しないことなどわかっているが少しだけすっきりとした気分になれる。どうせ誰もいないのだし叫んでしまえともう一度「チクショー!」と大声で叫んでみた。

 晋助がぶらんと鉄棒にぶら下がり公園の柵の向こうを眺めていると見慣れたシルエットが近づいて来るのが見えた。「あ」と思わず声が出た。しかし、その隣にもう一つシルエットが見える。胸に湧いた喜びは一瞬でかき消される。晋助は「チッ」と舌打ちした。もう一つのシルエットにも見覚えがある。何度思い出しても胸くそ悪い。

 いつだったか学校帰りの銀時と出くわしたことがあった。出くわしたというか、タイミングがよければ会えるかとわざとその時間を狙ってはいたのだけれど。銀時に声をかけられ振り向くとソイツがいた。ソイツは銀時と同じ制服に似たような体格をしていて当然のように銀時の隣に立っている。そのことに無性に腹が立ちギロリとソイツを睨んだ。銀時はそれを気に留めることもなく「どうした? うちに来る途中か?」とのん気そうにへらりと笑う。「オイ、銀時、このガキは?」と、睨む自分を一瞥したソイツは銀時にそう訊いた。「ん? あぁ、近所のガキ。晋助っての。弟みてぇなもんかな」銀時はそう答えてからポンポンといつものように頭を撫で「ソレ、おばさんから? 何?」と晋助が手に持っていた重箱を指差す。ソイツは興味なさそうに「へぇ〜」とだけ言うと「じゃあな」と銀時の肩をポンッと叩いた。銀時は「おう。土方、また明日」とヒラヒラとその手を振った。

 鉄棒にぶら下がったまま通り過ぎて行くふたつの人影を見送りながら気がつかなかったことにしようと晋助は思った。

 当然のように肩を並べて立つふたりを見上げるようなことをわざわざしたくはない。自分と銀時の間にはどうにもならない差があることはもう十分わかっている。今さら惨めな気分になんかなりたくない。あのヒジカタとかいうヤローがどういうつもりなのかなんて知らないが、どんなつもりにしろ気にくわない。

「疲れたな…」

 晋助は鉄棒から降りると少し赤くなった手のひらをさすった。ハァと大きなため息を吐く。本当に馬鹿なただのガキになれたらいいのにと思う。そうすれば今頃はテレビを見るか、ゲームをするかして親に小言の一つも言われ腹を立てたりしていたことだろう。悩みと言えば口うるさい母親ぐらいで、毎日のん気に楽しく暮らしてるはずだ。いくら考えても答えなんか見つかるはずもないことで悩むことなんてない。晋助はもう一度息を吐くとヒョイと鉄棒にぶら下がった。

「オーイ。オメー、ンなとこで何してんだよ。テメーの母ちゃんから電話かかって来たぞー」

 晋助が顔を上げると銀時が面倒くさそうに肩を揺らして歩きながら近づいて来る。銀時は晋助のぶら下がっている鉄棒の前まで来るとボリボリと頭を掻きながらしゃがむと晋助を見上げた。辺りは仄暗くて自分を見上げる銀時の表情はよくは読み取れないが上目遣いになっている赤茶けた眸になんとなく今なら言ってみてもいいんじゃないかと思えた。

「オイ。銀時」

「…なんだよ」

「俺は…、俺は…、お前のことがマジで、好…」

 カァー! カァー! カァー!

「お。カラス。晋助、帰ろうぜ。おばさん、晩飯はコロッケっつってたぞ」

 ズルッと手が滑り鉄棒から落ちた。「いてェ」と小さく呻いた。泣きたいのはケツが痛いからではないが、自分も目の前にいるコイツごまかすにはちょうどいい。俯いていると白い手が差し出された。

「ほら。帰んぞ」

 顔を上げると銀時はフワリと笑った。キレイだなとちょっと間その顔を眺めてから差し出された手を取るとグイッと引っ張られた。

「なぁ…、銀時、俺、デカくなると思うか?」

 そうぼそりと訊くと、

「ん〜、オメーはきっと大物になるよ」

と答える。

 焦ることはないのかもしれない。ただ、あのヒジカタとかいうヤローは要注意で、さっきのカラスはそのうち焼き鳥にしてやる。晋助は東の空に顔を出した黄色い月を見ながらそんなことを考えた。



(了)

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