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見上げた空は白く霞んだ水色をしていた。ふわりふわりと浮かぶ薄い雲はいつぞや降った雪みたいに白い。そして、ふと気がつく。いつの間にか日が明るくなっていることに。そりゃそうか、冬至なんかだいぶ前に過ぎてるし、もうぼちぼち立春だもんなと納得する。僅かに黄みがかった光が斜めに射し込む。その色に温もりを感じるけど頬を撫でる風は冷たい。そう言えばあそこの梅が花をつけてるかもしれないと思って、明日あたりの塒はあの梅のそばにしようかなと考えた。
「なぁなぁ、晋助、天気はすげーいいのに風は冷てぇのなぁ」
隣で間抜けな声がした。寝てるのかと思っていたがそうじゃなかったらしい。
「阿呆が。日の光は空気をあっためたりしねェんだよ」
隣をチラッと見てから答えてやると、「ふぅん」と気のない返事が返ってきた。なぁんだ単なる思いつきか。ま、コイツのアタマじゃ仕方ねェかな。と、溜め息を吐いた。銀時はググッと体を伸ばすと欠伸をしている。俺とは違う白い毛はキラキラと柔らかい陽光を反射して艶やかに光っていた。
隣にいるコイツとはいつから一緒にいるんだっけと、金色の光が川面に反射するのを眺めながら考える。そして、いつからでも構わねェかと思い直した。ピタリとくっついた体から伝わる体温が心地いい。心地いいのは銀時も同じらしい。川面を見ながらウトウトしている。その気持ちよさそうな顔がなんだか愛おしいような気がしてほんのちょっとだけ頬を寄せると、銀時が「何?」とイヤそうな顔をしたので、俺は「別に用なんかねェよ」と寝そべっている銀時の背中に自分の頭を乗っけた。
「ちょ、重いんだけど」
「そうか」
「そうかって。オメ、退く気ねぇな!?」
「ねェよ」
銀時は黙ったまま不服そうな表情をしている。面白ェなと思って笑うとますます不服そうな顔をした。
「銀時ィ、どうしたよ」
「べっつにぃ〜。なんもねぇよ……っつうか、腹減ったな〜……」
銀時のボヤキにそういや食ってねェなァと思い出した。かれこれ3日ぐらい食ってねェかもしれねェ。前に食べたモンはなんだったかと考えたが思い出せない。というか、思い出すとますます腹が減るから思い出さないようにしていただけだったりする。今夜あたり何かにありつけるといいけどなァと空を見上げた。陽射しはだいぶ傾いて雲の隙間からは金色の光が零れる。葉を落とした枝が空に描くシルエットがずいぶんと寂しげに映る。もう少しすれば日が翳る。
「なァ、銀時、食いモン探しに行くか?」
と、訊くと、
「あぁ、もちっと暗くなったらな」
と、答えが返ってきた。
昔は良かった。年寄りくせェ訳じゃなく本当に良かった。俺たち以外にも仲間はいたし。食いモンもあった。腹いっぱいは食えなくても飢えない程度には食えていた。いつからだろう。気がつくと仲間が減っていて、食いモンにありつけなくなったのは。場所を移したヤツもいるんだろうが、それだけじゃないだろう。その理由は決して口に出したりはしないが。
あっという間に日は暮れて行く。西の空が鴇色に染まるのなんてほんの一瞬でしかない。まだ明るさの残る東の空には月がぽっかりと浮かぶ。月だけがやたらに白く煌々と輝いている。地上に光が届かなくなると風はすぐに冷たくなった。ポカポカと温かかった寝っ転がっていた平らな石もすぐにその温度を失った。空はほんのり明るいのに俺たちのところにはもう光は届かず、ドロリとした黒い水が流れていく音しか聞こえない。ここにはもう俺と銀時しかいないんだなと思った。
夜陰に乗じてウロウロと食いモンを探して歩いたが、手に入ったのはほんの僅かな量だった。こんな季節だし、もうちょっと暖かくなれば少しはマシになるかもしれないが、そろそろ潮時なのかもしれない。
「テメェが食えよ。全部食え」
「でも、オメーは?」
「腹減ってんだろ? 俺ァいらねェ」
「じゃあ、俺もいらねー」
「阿呆か、テメェは。昼間、腹減ったっつってただろうが。食え!」
「俺の『眠い』と『腹減った』はただ口癖だ。オメーが食わねーなら俺も食わねー。絶対食わねーぞ!」
赤い目ん玉が俺をキッと睨んだ。夜空に瞬くあの赤い星はなんて名だったか。星なんかよりすぐそこにある赤い目ん玉の方がずっと綺麗だが。睨まれている俺は暢気にそんなことを考えた。南中した月が高いところから俺を睨む銀時を照らしている。昼間、柔らかな陽光に照らされていた毛は陽光と同じに艶やかに光っていたが、冷たい月の光に照らされた毛は月と同じに清冽な銀色に見える。コイツは俺と同じ生き物なんだろうかとこちらを睨む赤い目ん玉をじっと見た。
俺が銀時に食えというのは、単に俺がその赤い目ん玉が二度と開かなくなるところも、ヤツの艶やかな白い毛がその光沢を失うところも見たくねェってだけで、俺はどうなっても構わないが俺の目の前でこれを失うってのだけは御免被りたい。
「食わねーからな。オメーが食わねーなら俺も食わねーよ」
銀時はツイッと視線を逸らした。あぁ、怒ったな。と、思う。仕方ねェと溜め息を吐いた。
「……わかった。俺も食うからテメェも食え。それならいいんだろ?」
「きっちり半分ずつだからなっ!」
分けてしまえば『食った』とは言えねェような僅かな食いモンをたいらげ水で空腹を紛らわしながら、銀時を失いたくないっていうのは俺のエゴなんだろうなぁと思った。要は残されたくねェってだけのことかもしれない。
月もない真っ暗な夜などに想像する。幾日も幾日もたった独りで生き続けなければならない自分の姿を。誰もいない。たった独り。その孤独を考えると胸が苦しくなる。孤独に恐怖を感じる。
『失いたくない』は、『独り残されたくない』という臆病者の言い訳だ。
「明日の塒は川下の梅の辺りにしねェか」
隣で水を飲んでいた銀時に言った。
「ん? あぁ、いいぜ。あの梅の木のとこで。俺ァどこでもいい」
「そうか」
「うん」
銀時は暗闇の向こうを見た。
梅は、ポツリ、ポツリと白い花をつけていた。満開になるまでにはまだしばらくかかる。凛とした小さな白い花の向こう側に澄んだ水色の空が見える。銀時は隣でダラリと寝っ転がっている。欠伸をひとつして、ゆっくりと瞼を閉じる。白い毛は夜の清冽な銀色ではなく金色の小さな粒子を纏ったみたい光っている。手を伸ばしそっと撫でる。片目を開けこちらをチラリと見ると、何も言わずに目を閉じた。隣に寝っ転がりピタリと寄り添う。パタパタと羽音がした方を見やると鶯が飛び去って行った。
「なぁ」
「なんだ、寝てねェのか」
「寝てねぇよ。なぁ」
「なんだ」
「梅、いつ満開になんのかな」
「さァな、いつだろうなァ」
「うん、いつなんだろうなぁ。満開のコイツも見てぇなぁ」
「そうだな」
「オメーと見たい」
「そうか」
「そうだよ」
銀時は眠そうな目でフワリと笑うと俺の失くした方の目をペロリと舐めた。
***
その男が最近めっきり見かけなくなっていたカワウソを偶然見かけたのは、梅の木が生えている川岸だった。
ちょうど梅は満開で、梅の花を眺めながらそろそろ春だなと男が思っていると小さな影がふたつ見えた。男が息を潜め、目を凝らしふたつの影をよく見てみると、小さな動物のようだった。
カメラを構え、そのふたつの影を追う。どうやら数が減ったと言われているカワウソのようだ。その2匹だけで他はいないようだった。つがいだろうなと思った。そんな話を聞いたことがある。そのつがいのちょっと変わっているのは1匹の毛が白いことで、ファインダー越しにジッと観察する。2匹は寄り添うように日向ぼっこをしていて、その姿がなんとも仲良さげで可愛らしく思わず口元が綻んだ。
男が2匹の姿を写真に収めようとシャッターを押しかけたとき、白じゃないヤツがヒョイと顔を上げて目が合った。白いヤツも顔を上げる。あっと思ったときには遅く、2匹は森の中へと消えて行った。
(了)
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