*

 春は確実に近づいているらしい。気がつけば、空の色は明るくなり、学校の桜の蕾も目立つようになっていた。そして、行き先の決まってるヤツにも、決まってないヤツにも、同じように別れのその日はやって来る。いつもどおりに登校し体育館で何度か入場と卒業証書授与の段取りの練習をして、一旦、教室に戻る。これでいよいよ終わりなんだなと廊下を歩きながら窓の外を眺めると、グランドと校舎の建つ敷地を隔てている桜並木の細い道が見えた。あと何週間かすれば桜のトンネルができるだろうが、それを見ることはない。けっこう気に入っていたんだけどなと土方は思った。

 教室でおのおの好きなように喋っていると銀八がヒョイと顔を覗かせた。トレードマークの白衣は今日はさすがに着ていない。銀色の頭はフワリと揺らすと「ぅお〜い。並べ〜」といつもと変わらない調子で生徒たちに声をかける。その声に土方たち生徒が席を立ちぞろぞろと廊下へと出ると、銀八はチラッと生徒たちを見やり「行くぞ〜」とやる気なく手を上げ、そのままその手を後ろ頭へとまわした。少し猫背になって歩く銀八のその後ろ姿も今日が最後だ。

そう、今日でお別れだ。



   * * *



「…あンのヤロー…」


 土方は思わず声に出して呟いた。額には油汗が浮かぶ。体育館で行われている卒業式は卒業証書授与に移っていた。生徒一人一人の名が呼ばれ、最後にクラス代表が卒業証書を受け取る。静かな体育館に名を呼ぶ教師の声と『はい。』と返事をする生徒の声が響く。一旦、教室に戻ったあのとき、いつもだったらあんなヘマはしないのに、うっかりしていた。学食に置いてある自販機で買ったらしいコーヒーを沖田に手渡され、こともあろうに飲んでしまったのだ。

 油断していた。

 まずい。

 どう考えてもまずい。

 腹の調子がおかしい。…気がする。

 いや、おかしい。

 つうか、痛い。

 つうか、ヤバい。

 3列前に座る沖田の背中を睨んだ。土方の視線に気がついたのか、沖田がゆっくりと振り向き黒く笑う。卒業証書の授与は土方たちのクラスの番になり銀八がクラスメートの名を呼び始めた。朝、土方は銀八に「オメーがクラス代表なー」と呼び止められていた。ということは、名前を呼ばれるのは最後で、しかもそのあとステージに上がり校長から証書を受け取らなければならない。

 ……ヤベェ。

 これ、ヤベェだろ。

 俺、保つのか。

 最後まで。

 いや、『仰げば尊し』は諦めるっ。

 卒業証書授与だけは、なんとしてでもっ。

 って、ぅぉおお〜〜〜! な、波が、波が、キターーーッ!!

 耐えろっ!

 耐えろ、十四郎っ!

 まだ、イケるっ!

 まだ、お前なら耐えられるはずだっ!

 ぅぉおおお〜〜〜!

 銀八が名前を呼んだらすぐに返事をしないのは何故だ!?

 アイツらはなんでヘンな間をとるんだ!?

 銀八の声と被るぐらいのタイミングで返事しろや!?

 ぐぉぉおおお〜!

 総悟、殺す。

 ぜってェ殺す。

「沖田総悟」

と、沖田の名を呼ぶ銀八の声が聞こえた。

 沖田は再び土方の方を振り返りニィーッと笑うと、ゆっくりと間をとり、

「…へィ」

と返事をした。

 …マジ殺す。

 …人間が殺意を感じる瞬間てこういうときなんだな。

 今ならわかる。

 殺人犯の気持ちが。

 アイツ、殺す。

 マジぶち殺す。

 アイツを殺したって罪になんかなんねェだろ!?

 むしろ感謝状もらえるんじゃないのか!?

 つうか、本気でやるか!?

 普通、言ってもやらねーだろ!?

 しかも、このタイミングでやるか!?

 アイツ、馬鹿だ!

 ぜってェ馬鹿だー!!!

 土方が猛烈な便意に悶えていると、天の救いとも思える銀八の声が聞こえてきた。

「Z組代表、土方と…」

「ハイィィイイーーー!!!!!」

「? ちょ、土方?」

 土方はできうる限りゆっくりと、傍目には小走りに見えただろうが、ステージに向かうと校長が「卒業しょ…」と言いかけたところで証書を奪った。

 段取りではクラス代表はクラス全員の証書を受け取りステージを降りると担任に証書を渡すことになっている。

「ひ、土方? どした!?」

「ちょ、ワリ、俺、限界ィィイ〜!!! ぅぉぉおおお〜〜〜〜!!!!!」

 土方は校長から奪い取った卒業証書を銀八に押し付けるように渡すと叫びながら走り出した。

「??? 土方ァ!?」

 銀八が呆然と走り去る土方を見送っていると、涼しげな顔をした沖田と目が合った。沖田はちょっと肩をすくめ、両手を『どうしたんですかね?』と言ったふうに上げただけだった。



   * * *



 確実に式は終わっただろうな、と土方は静かなトイレでひとり手を洗う。元来、どちらかと言えば冷めた性質だ。多少は寂しかったり、今までのことを思い出したりもするが、卒業式にそこまでの思い入れみたいなものはない。ないが、やっぱりちょっと残念だったかもな、と思った。「あ〜ぁ」とため息をこぼし、廊下を明日から通うことのない3年Z組の教室へと歩く。外からザワザワと聞こえて来るのは3年が出て来るのを待っている後輩たちだろう。花束や色紙を抱えて待っているに違いない。自分たちもそうしたように。

 3年なんかあっという間なんだな。

「年を取れば取るほど時間が経つのは早くなんだぜ。アレだ。どっかに出かけたとき、行きより帰りの方があっという間っつうのとおんなじらしいぜ。長く生きて、1年をなんべんも繰り返しってっと短く感じるようになるんだとよ」

 屋上で煙草をプカプカさせながらそう言った銀八の姿を思い出す。

「ま、せいぜい青春を謳歌するこったナ。後悔なんてするときゃするモンだし。過ちってヤツは若ェうちにやっとく方がいい。間違いのない人生なんてあるわきゃねぇんだ」

 フェンスに寄りかかりグランドを眺める銀八に「ずいぶんジジ臭ェこと言うんだな」と言うと、

「そりゃ、当たり前の真ん中だろ。オメーに比べたらジジィだもん」

と、煙草を口から放し、土方の方を見て笑った銀八はジジィでもオッサンでもなく、キレイだった。

 …だよな。

 同じ後悔するならやっちまったっつってする方がなんぼかマシかもしれねェ。

 風にはためく白衣の裾や、鈍く輝く銀色の柔らかそうな髪、チョークを持つ白い指、メガネの奥に覗くアメ玉みたいな瞳。何もしなかったらそれらを眺めるのも今日で最後だろう。何年後かに同窓会で再会し「すっかりオッサンだな」と他愛ない会話を交わすだけだ。4月になれば銀八はまた新しい生徒たちと自分たちとのような関係を築いていくんだろう。そして、自分に話したのと同じように他の誰かにあっという間に時は過ぎ去るものだと話すのかもしれない。

 どうせ最後だ。

 気まずきゃ同窓会になんか行かなきゃいいし、ケリをつけた方が気持ちだけじゃなくいろいろと落ち着くかもしれない。

 そう。夜中にハッとして目が覚め、ガクリとすることも、コッソリ洗濯することもなくなるかもしれない。

 微かに歌が聞こえてくる。校門で合唱部が練習しているらしい。毎年、ぞろぞろと卒業生たちが卒業証書を手に校門をくぐり学校をあとにするときに歌って送り出すのだ。聞こえてくるのは、最近流行っているらしい学校の先生が作ったとかいう卒業ソングだ。

 総悟に盛られてなかったらこんなふうにひとり廊下を歩くことはなかっただろう。でも、

「アイツは殺す」

 土方はさっきまでの猛烈な腹痛と沖田の黒い微笑みを思い出し、ぼそりと呟いた。



   * * *



 教室に戻ると、「おー、土方ー、やっと戻って来たかー。おら、あとはテメーだけだぞー。取りに来ーい」と銀八から卒業証書を手渡された。日頃の銀八のイメージからは程遠い繊細そうな真っ白な指と、桜色の爪。女子たちがきゃあきゃあ言いながらマニキュアを塗っていたことがあった。今日も指先にはチョークの粉がうっすらついている。
「マジでこの人のこと、好きかもしんねェ」とその手を眺めながら土方は思った。

「さてと、土方も戻って来たし、いよいよお別れだなー。ま、とりあえず、がんばんなさい。カッコ悪くなんかねーからよ。世の中に出りゃがんばってもダメなことなんていくらでもあるけどダメでも落ち込むことなんてねぇよ。がんばってみて、こりゃダメだと思ったときは逃げたっていい。世界はオメーら考えてるよりずっと広ェんだ。絶望するこたねぇから。んじゃ、これでオシマイ。調子に乗って酒飲んだりすんなよー」

 最後まで銀八は銀八らしい。すすり泣く声も聞こえたが、土方は銀八の言葉にフッと笑いが漏れた。

 外に出れば、部活の後輩たちが待っていて、号泣している近藤さんに抱きつかれた。素直に泣けるこの人を少し羨ましく思うと鼻の奥がツンとした。後輩たちから花束を渡され礼を言っていると、突然、総悟に羽交い締めにされた。そして、「おーい。女どもー。土方、捕獲したぜー」の総悟の声とともに自分に襲いかかって来た女どもにボタンというボタンをすべてむしり取られた。こんなこともこれで最後だろう。でも、「総悟のヤロー、ぜってェ殺してやる。一生、忘れねェ」と決意を新たにした。



   * * *



 ひと通りお別れのセレモニーを終わらせ、教室にふらりと戻った。窓際の席に座り中庭を眺める。シンと静かな教室をやさしい昼の陽射しが明るく照らす。黒板はきれいに消され、壁の掲示物も全て剥がされてしまっている。ここはもう自分の居場所じゃないんだなと思っていると、聞き慣れた声がした。

「なんだ。まだ帰ェってねぇのか?」

 土方が振り向くと、いつものよれよれの白衣を着た銀八いた。

「お、男前は違うねぇ。ボタン、全部むしられたか?」

 銀八はそう言うとニヒヒと笑う。「天気がよくてよかったなぁ。まぁ、雨の卒業式もオツなモンだけどなー」と窓の外を眺める。

「なぁ、銀八、」

「ん? なんだー?」

「俺、アンタのこと好きみてェ」

「あ、うん」

「付き合って」

「あ、う…、ぁあ!?」

 土方はガタリと大きな音をたて席を立つと、銀八の腕をガシッと掴んだ。

「今、アンタ、『うん』って言ったよな」

「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ、『う』としか言ってねぇよ。先生『うん』は言ってねぇからっ!」

「今、言った」

「ちょ、ちょ、待ちなさい。土方くん。瞳孔カッ開いて死体みたいになってるよ」

「いや、もう、待てねェ。だって、今日で最後だろうが」

「うお〜〜〜!? 鼻息荒いんだけど。なんか怖いんだけど。てか、先生は男の子ですっ!? 待てっ。待てっ。とりあえず落ち着こう。ヒイィィィ〜〜〜〜!?」

「諦めろ」

ガラッ。

「お前ら何やってんだ? 銀八、今日の飲み会いつものとこらしいぜ。じゃあな」

「……高杉…?」

「………」

 銀八はクスリと笑うとポンポンと宥めるように土方の頭を撫でた。

「俺、諦めねェから。とりあえず、休みになったらすぐに帰ってくっから。つうか、明日も来てやる」

 銀八はほんの一瞬びっくりしたように目を見開いたが、ため息をひとつ吐き、少し呆れたように笑うと、

「まあ、がんばんなさいよ。これから近藤たちと約束でもあんじゃねぇの? さっさと帰れよ」

と教室をあとにした。





(了)

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