*

 カチリと音がしてフワリと煙草の匂いがした。斜め向かいに座る俺がちっせェガキの頃からよく知っている年上の男は、古ぼけた卓袱台に頬杖を突き、つけっぱなしのテレビに視線をやるとほんの少しだけ眉間に皺をよせ煙草を吸った。指で挟み煙草を口から放しフゥと白い煙を吐き出してから安っぽいガラスの灰皿にトンッと灰を落とした。そして、ユラユラと白い湯気の立つグラスを手に持つとコクリと一口含んだ。

 銀時が煙草を吸うことに気がついたのは、この家の持ち主だった先生が呆気なく逝ってしまったときだ。葬式の終わったその夜、独りきりになったその背中を見て帰れなくなった。庭に佇む銀時の背中に「オイ」と声をかけると振り向いた銀時は煙草をくわえており、恐らく驚いたような顔をしていたであろう俺に銀時は「どうした?」と穏やかに訊いた。余計な世話だったかもなと思う。あの時、本当に独りになりたくなかったのは俺の方で、アイツではなかったかもしれない。

「旨ェのか?」

「ん?」

 俺の問いかけにボーっとテレビの画面を眺めていた赤茶けた眸がこちらを向いた。

「旨ェのかって」

「何が?」

「それ」

 俺がグラスを指差すと、銀時はほんの少し目を伏せ手元のグラスを見た。

「どうだろうなぁ…」

 呟くように答え、グラスを置くと煙草をくわえ直した。俺が黙っていると煙草をくわえたまま横目でこちらを見やり微かに笑う。

「不味くはねぇかなぁ」

「へぇ…」

 俺が置かれたグラスに手を伸ばすとピシャリと叩かれた。

「テメェにゃ早ェよ、ガキが」

「ガキじゃねェ」

「阿呆、ガキだろうが」

 クスリと笑い僅かに顔を上げると、だいぶ短くなった煙草を眉間に皺を寄せながら吸った。強く白い煙を吐き出すと、摘んだ煙草を灰皿にギュッと押し付けた。そして、俺の額をピンッと白い指で弾く。

「俺が何やってっか知っててやってんのか? ナメんじゃねぇぞ、コラ。テメェがどこで何してようが知ったこっちゃねぇけど、少なくとも俺の前では煙草も酒もダメです。だいたいこの家でテメェにンなことさせたら先生が化けて出て来るだろーが」

 黙っている俺を見て目を細め笑うが、それはあくまでも年下のガキに対する保護者のそれでしかない。あの頃から何一つ変わらねェんだなとため息を吐いた。

「…オメェは変わらねぇなぁ。なぁにため息吐いてんだよ」

「…うるせー」

「…そうか」

 そう言って銀時は酒を口に含む。グラスの氷がカラリと音をたてた。馬鹿だけど馬鹿じゃない銀時は俺に一度だって隙を見せたことはない。鈍感で何も気づいていない方がまだ救いがある。もしそうであるなら俺はついうっかり口を滑らせてしまったフリができただろうに、それは望めそうにもない。

 俺は頬杖を突き手元の本のページを捲った。少し古いその本の端が褪せたページを捲るとペリリという紙が剥がれる微かな手応えを感じる。先生の「本だけはたくさんありますから」の言葉どおりこの家にはたくさんの本がある。書庫として使っている家の奥の北側の風通しのいい部屋の壁いっぱいに取り付けられた棚は本で埋め尽くされており、先生がいなくなった今も増え続ける本は棚に入りきらずに床に積み重ねられている。古今東西の人間はこれだけ書いてもそれでもこの苦しみの答えは誰にもわからずじまいらしい。にも関わらず書くことをやめない人間は本当は恐ろしく楽観的な生き物なのかもしれない。いつかは答えが見つかると思っているのだろうか。

「ところでオメーは何しに来たんだよ」

 何を喋るでもなく本のページを捲る俺に銀時は訊いた。

「おふくろにテメェにそれ持って行けって言われたから。それに週末は入試で俺ァ明日発つし」

 俺が本から顔を上げずに答えると、銀時もなんでもないような調子で返す。

「あ、そうなの? 迷子にだけはなんねーようにな。迷子で試験受けらんなかったとか笑い話にしかなんねーぞ」

「なるか、馬鹿」

 本から視線を外しチラリと銀時を見た。銀時は新しい煙草をくわえ火を点けようとしていた。青白い蛍光灯に銀髪が鈍く冷たく光る。おっさんだからと笑う銀時の煙草を操る指はスラリと白く滑らかで長い時間を経てもなお変わらない白い大理石の彫像のようだ。煙草をくわえたふっくらとした唇にギクリとして本に視線を戻した。

「帰れとか言わねェのかよ」

「何が?」

 自分のドロドロとした浅ましい感情に耐えきれず口を開くと銀時は興味なさげに聞き返した。

「受験生が本なんか読んでねェでさっさと帰って勉強するか寝ろとかって言わねェのかって」

 銀時は灰皿に煙草を置くとポンと俺の頭に手を乗せた。

「明日発つとか言ってるヤツに今さらだろ。それにオメーにンなこと言う必要なんかねぇだろ」

「…そうかよ」

「オメーはさ。賢いよ。これからどこにでも行けるし、何にだってなれる。そういうヤツだよ」

 銀時はそういうとポンポンと俺の頭を軽く叩く。

「…ずりィな」

 ボソリと呟いたが、銀時は聞こえないフリをした。

「行きたいとこに行ってやりてぇことをやれよ。それが出来るヤツなんてそうそういねぇんだよ。お前はそれが出来るヤツなんだからよ。くだらねぇことを考えてねぇでどこにでも行っちまえってんの」

 灰皿の煙草は燃え尽きていた。銀時は「もったいねぇなぁ」とぼやいてからグラスの酒をゴクリと飲み干した。そして、ポツリと言った。

「…いつか。いつか、テメーと飲みてぇかなぁ…」

「いつか、な。……この本借りてくぜ。じゃあな、銀時」

「年上を呼び捨てにすんじゃねぇよ。『銀時お兄さん』だっつってんだろーが」

「馬鹿じゃねェのか。気色悪くて呼べっかよ。じゃあな」

 俺は春になればこの町を出る。仄かに月明かりの射す暗い庭に対の紅白の梅が静かに咲いていた。



(了)

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