*

 あれはいつの夏だったかなと、真夏の蒼穹を見上げる。密度の高そうなしっとりとした光沢のある白い入道雲は、綿毛というよりは上等の羊毛か何かのようだ。雲の隙間から見える空は鮮やかなコバルトブルーで、道の脇に咲いていたツユクサの色を思い出し同じ色だなと思った。

 そう昔のことでもないのに、あの夏をやたらに昔に感じるのは何故だろうかと思う。既に500円玉はあったし、缶ジュースは100円では買えなくなってた。500円玉や缶ジュースのことをよく覚えているのは、ポケットに500円玉を一枚突っ込んで行ったちょっとした冒険だったからと思う。記憶を手繰り寄せながらポツポツと思い出す断片を懐かしいなと思って、あぁそうかと思う。ずいぶん昔のことのように感じるのは、あの夏にはあったものをいろいろと失くしたからだ。色褪せていく写真とは違って頭の中にしまったままになっていた記憶は取り出してみると今でも鮮やかなままで人間の頭ってのは面白いもんだなと妙に感心した。

 息が詰まりそうなねっとりとした熱い空気に我慢できずポケットの小銭を取り出して道の脇に置かれた自販機でお茶を買った。キャップを開け、ゴクリとお茶を飲む。冷たい液体が喉を通り過ぎて行くのがわかる。ペットボトルはあっという間に汗をかきビショビショになる。熱く乾いたアスファルトに水滴はポタリ、ポタリと黒いシミを作ったがすぐに消えた。

 音も伝わって来ないような空の高いところを飛行機がスーッと白い線を描きながら飛んで行く。空の眩しさに目を細める。あの夏も暑かったなと、山に囲まれたこじんまりとした集落にポツリと建っていた古ぼけた小さなばあさまが暮らしていた家を思い出した。

 あの年、夏休みが始まる少し前に無理を言って自転車を買って貰った。あの頃ちょうど流行り始めたマウンテンバイクで、それなりの値段だったと思う。どうしても欲しくて、親に買ってくれと頼み込んだのを覚えている。俺はその自転車に乗り一人でばあさまの家に行った。新品の自転車で行けるとこまで行ってみたいという、ちょっとした冒険心だったんだと思う。

 ばあさまの家にたどり着いてしまえば、俺のすることと言ったらあとは盆に親たちが帰省して来るのを待つぐらいのものだった。もちろん宿題なんか持って来てるはずもなく、そこにあったのは山と畑と川とやたらと映りの悪いテレビぐらいしかなく退屈と言えば退屈だった。

 一人で来た俺に遊び相手が必要だと思ったんだろう。ばあさまは、近所と言っても山をひとつ越えた向こう側だったが、俺と同い年ぐらいの子供がいる家に連れて行ってくれた。大人がいろいろと世話を焼いてくれたが、結局お互いチラッと顔を見てそれっきりで名前も訊かないままだった。

 * * *

 薄暗い土間はひんやりとして涼しい。ちょろちょろと水音がする方を見ると、緩く開いた蛇口から水が流れっぱなしになっている。蛇口の下に置かれたたらいの中でクルクルといくつかトマトが回っていた。

 ばあさまの家には俺が普段食べているような菓子なんか置いてないし、商店らしきものはあるにはあったが歩いてたっぷり30分はかかった。甘いものと言えば、ばあさまが移動販売が来たときに買ったヤクルトぐらいで、おやつは西瓜を切ってもらうか、唐黍を茹でてもらうか、でなければトマトか胡瓜をかじるしかなかった。

 たらいからトマトを取り出し水を軽く切ると、Tシャツの裾で拭いた。トマトを顔に近づけると青臭い匂いがした。トマトをかじろうと口を開きかけて、人の気配を感じて振り返った。
「………お、お前、…どこんちの子?」

 開けっ放しになっていた戸口に何も言わずに真っ白い子供が立っていて、自分と同い年ぐらいその子供におっかなびっくりそう訊いた。俺は『どこんちの』と訊いたが、その子は『どこんちの』子でもなさそうだった。目の前にいる子供がこの辺りのどこんちかの子供なら噂にならないはずはない。でも、そんな話は聞いたことがなかったし、たぶん聞くはずもない。子供の格好は今の子の格好じゃなかった。テレビで見たドラマとかに出てきそうな着物を着ている。それで直感で幽霊だとか、妖怪だとか、なんかそういう種類のものじゃないかと思ったけど、それを口にすると食われるんじゃないかという恐怖と、正体を知りたいという好奇心とで『どこんちの』という言葉が出てきたんだと思う。

 真っ白な子供はコテンと首を傾げた。猫かなんかの毛みたいな柔らかそうな白っぽい髪の毛がフワリと揺れた。そして、そうだ!それだ!と思う。猫とか、狐とか、なんかそんな感じだ。クリッとした大きな目が不思議そうにこちらを見ている。

「食う?」

 確証なんてないが自分の推理に満足して少し安心した俺は、自分の手に持っていたトマトを子供に差し出してみた。子供は驚いたみたいに大きな目をますます大きくさせトマトと俺を交互に見た。

「俺の分なら、ホラ、あそこにまだあるから大丈夫だぜ」

 顎でクイッとたらいの方を指した。それでも子供はトマトをじっと見ながら何か考えている。こういうときは自分の方がじっと待っていないと逃げられちゃうんだよなぁと、トマトを見つめる子供の白い頭を眺めた。俺は子供をすっかり猫だとかそういうものだと決め込んでいたようだ。

 しばらく、と言っても長かったのか短かったのか本当のところはわからないが、とにかくトマトを手に乗せたまましばらく待っていると、白い子供はツツツと近づいて俺の手からそっとトマトを取った。トマトを取った手もやっぱり真っ白で爪の桜色がきれいだった。そして、その手は俺のよりは小さくてふくふくとしていたが、触れた指先はひんやりと冷たかった。

 子供はトマトを大事そうに両手で持つとツツツと後ずさりした。そうして、最初みたいに戸口にちょこんと立ってコクリと頭をほんのちょっとだけ下げると、サッと踵を返した。あっ!と思って、追いかけようとして慌てて外に出たが子供の姿はもうそこにはなくて、さっきまでは聴こえてなかった蝉の声がそこらじゅうに響き渡っていた。

「なぁ、ばあさま、このへんに座敷わらしとか、河童とか、狐とか、なんかそういう昔話あったりする?」

 その夜、夕飯を食べながらばあさまに訊いてみた。ばあさまの答えは、自分は聞いたことはないけどどうだろうね、こんな田舎だし一つや二つはあってもいいかもしれないねというようなものだった。

 北側の部屋の隅にじいさまが残した本棚があって何かそれらしい本があるかもと探してみた。じいさまの本はどれも古くて褪せてて背表紙に書かれたタイトルを解読するだけでひと苦労で探すのを諦めた。それにあの子の正体はあの子にまた会ったときに直接確かめればいい。でも、わかってしまったとしても知らないフリをしなくちゃいけないんだっけ?と、自分の知ってる昔話を幾つか思い浮かべた。

 朝飯を食べ終わって、ばあさまから田んぼに行くが一緒に行くかと尋ねられた。ちょっと考えたあとで留守番すると答えると、留守番するのは構わないがむやみに山に入らないことと、水路で遊ばないことを約束させられた。ばあさまが頬かむりをして麦藁帽子姿で鎌を持って出かけて行くのを見送ると家の裏へと回った。

 家の裏には小さな田んぼがあってその向こうは藪になっている。ぽっかりと空いた穴は藪への入り口だけど、その道は大して長くなく、家がある斜面の裏手へとすぐに出ることを俺は知っている。これはばあさまの言う『山』には当たらない。俺は畦道をぐるりと回り藪の中へと入った。藪の中は薄暗くひんやりとした空気が心地よい。デコボコした歩き難い小道はほんの少しだけ冒険心を掻き立てる。道を抜けると、水路の水音が聞こえる。水路は大した幅ではないが、そんな水路に酔っ払って落ちて死んだ人がいた話をばあさまがしていた。

 陽向に出て太陽の眩しさに目を細めていると、水路沿いの道の先にあの子供が立っているのが見えた。まずは手を振ってみると、子供も手を振り返した。少しだけ早足で子供の方へと行く。

「コレ」

 子供の目の前まで行くと差し出されたのは梨だった。

「くれんのか?」

 俺が訊くと、子供はコクリと頷いた。そして、1本だけ木が立っているこんもりとした丘を指差した。

「あそこに行くのか?」

 梨を受け取ってから再び訊くと、やっぱりコクリと頷く。白い手が俺の手を取る。トコトコと歩き出す。水路の脇には今朝咲いたツユクサがまだきれいに咲いていて、ユラユラと揺れている。田んぼの上を蜻蛉がくるり、くるりと飛んでいた。

 丘の上の木は栗だった。幾つかの青いイガが木の下に落ちてしまっている。上を見上げると幾つもの青いイガがぶら下がっていた。

「食べる」

 小さな声が聞こえた。子供は木の根元に座り、梨をかじった。しゃくっと音がして、ポタポタと梨の汁が滴る。俺も隣に座り、しゃくっと梨をかじった。甘い汁が口の中に広がる。

「うめェなァ」

 俺がそう言うと、子供は嬉しそうににひゃりと笑った。口のまわりや手をベタベタにしながら梨を食って、最後の芯の部分をチュウチュウとお行儀悪く吸う。芯はちょっと酸っぱくて美味しかった。味のしなくなった芯をポーンと草むらに投げた。

「雨、降るよ」

 子供が空を見上げポツリと言った。ぷかり、ぷかりと白い雲が浮かぶ空は明るくて雨なんか降りそうにもない。俺は隣に座る子供を見たが、子供は黙って空を見上げたままだ。俺も空を見上げてみると、ポタリ、ポタリと雨粒が落ち始めた。雨粒の落ちる速度は徐々に増し、雨脚は強くなる。シャワーみたいにザーザーと降っているのに空は明るいままだ。雨粒の反射光は白く光って、その光で辺りはぼんやりと霞む。お構いなしに降る雨にびっしょり濡れたけど、ちょうどいいやと梨の汁でベタベタになった手と顔をゴシゴシと洗った。

 雨はあっという間にピタリとやんだ。何事もなかったように真っ青な空をプカプカと浮かぶ雲が流れて行く。雨に濡れた草の葉の先の水滴がポタリと落ちてふるりと葉が揺れた。蝉が再び大合唱を始める。濡れた体を撫でる風が気持ちよかった。隣の子供はやっぱり空を見上げていて濡れてクルクルと跳ねた髪の毛についた水滴がキラキラと光っている。子供の口が「あ」と小さく開いた。空を見ると虹がかかっていた。

「すげー!」

「虹」

「うん、虹!」

 二人、顔を見合わせ笑う。

「あ、俺、十四郎。お前は?」

「銀時」

 子供はキョトンとして、それから鈴が鳴るみたいに小さな声で答えた。

 * * *

 それっきり『銀時』には会っていない。ばあさまがいなくなるまであの家には何度も帰ったけど、『銀時』に会えたのはあのときだけだった。最後に見た『銀時』の眸の色を思い出す。子供じみている思いながらも捨てられずに持っていた宝物の赤いビー玉みたいだった。たぶん、今でも実家の自分の机の引き出しの隅の方に入っているんじゃないかと思う。

 夕暮れ時の藍色の空に白く光る月を見つけた。『銀時』の色だなぁと思った。



(了)

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