02
朝の食卓におっさんの姿はなかった。どうやら明け方に帰って来て、まだ寝ているらしい。父親も母親も慣れたもので、おっさんについては何ひとつ語らずいつものように朝食を食べている。テレビの脇にはガラスの灰皿が置かれていた。吸い殻は入っていないから母親が片付けたんだろう。あれがあそこに置かれている間はあのおっさんはこの家にいるということだ。いいかげんでだらしなくって、何を考えて、いや、あれは何も考えてないような気がする、そのおっさんの姿を思い出し眉を顰める。そもそも、あの人は何をやって食ってんだろうか。そう言えば訊いたこともなかった。正しくは訊きたくないだけだったりする。両親や周りの人たちはおっさんのような存在を面倒に思ったり、嫌だったりしないんだろうかと思いながら味噌汁をひと口啜った。
バタバタと忙しそうにしている母親に行ってきますと声をかけ家を出る。カラカラという戸が滑る音の向こうから「行ってらっしゃーい」という声が聞こえた。ゴーッというエンジン音が空から降って来る。どんよりとした曇り空を見上げると、超大型旅客機が飛んでいた。どんなに世の中がハイテク化されても人間の生活の根っこの部分は変わらないようで、今や人間は宇宙のあちこちを好き勝手に移動しているが、一方でこうしてぶらぶらと自分の足で町を歩いて移動する。別に律儀にこんな時間から行く必要なんかないことはよくわかっているのだけど、悲しいかな、つい足が向く。習慣ってヤツだ。一軒の家の前に辿り着く。玄関先には『寺子屋 勉強教エマス。』の看板がかかっている。とりあえずと言った感じのその看板についてこの寺子屋の主に商売をする気があるのかと尋ねたことがあったが、自分の師匠でもあるその主は「自分が食える分だけ稼げりゃ十分。教えたくて教えてるワケじゃねェからなァ」と意地悪く笑って答えただけだった。
「おはよーございまーす」
いつもどおりに戸を開け玄関をくぐる。すでに小さな靴がいくつか並びガヤガヤと子供の話し声が聞こえて来る。玄関を上がってすぐの部屋を横切って庭に面した廊下に出て教室に使っている座敷へと向かう。「おはよーございます」と、もう一度挨拶した。
「よォ。ガキどもがお前が来んのを待ってんぞ。わかんねーとこがあっから教えて欲しいんだと」
「…いや、それ、おかしいでしょうが。アンタの仕事でしょうが」「は? なんか言ったか? わざわざお前をご指名なんだから、ケチケチしねェで教えてやれよ」
「じゃあ、バイト代くださいよ」
そう言ってから、しまったと思った。読んでいた本から顔を上げた先生は「へェ〜」とニヤリと意地悪く笑う。
「バイト代ねェ〜…。やろうか? 俺ァ、構わねーぜ」
「いや、やっぱいいです」
「遠慮すんなよ」
「いや、遠慮なんかしてませんよ。アンタから金なんか貰ったら何やらされるかわかったもんじゃあありません。このままで結構です」
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺がそんなことするワケねェだろ?」
「やるでしょ、アンタ」
先生はニヤニヤしながら面白そうにこちらを見る。あのおっさんもだけど、この人も何を考えてんだかわかんないなと思う。その物言いといい、態度といい、おおよそ先生らしくない。『先生』なんて呼んでいるが、自分はこの人に何かを教えてもらったことってあっただろうか。と、ふと思い返してみる。そう言えば、何も教えてもらってないような気がする。何を訊いても「知らねーなァ」とか、「そうなのか」とか、「へぇ〜面白ェなァ」とか、相槌を打つばかりだった。そんなんでよく『寺子屋』なんて看板を掲げたもんだと思う。
子供たちは「先生、龍之介先生、昨日の勝負の続きしよう」とか、「俺、飛行機作った。ホラ」とか、構ってくれと言わんばかりに先生に群がる。先生はと言うと、「おう。でもやることやってからな。やりたきゃサッサと終わらせて来い」と素っ気なく答え、子供の紙飛行機を「貸せ」と手に取り翼を弄っている。
「オイ、修治。答え教えろ」
ガキの一人が僕に偉そうに話しかけてきた。
「誰が『修治』だ!? バカたれ! 『修治様』と呼べ。だいたい答えなんざ誰が教えるか!?」
そう言って生意気なガキに拳骨を落とすと、「イテッ」と声が聞こえた。ツンツンとつつかれ振り向くと別のガキが僕を見上げている。
「修治、早く教えろよ、じゃねぇと先生と勝負の続きできねーじゃん」
「『修治』じゃねェっつってだろ! だいたいそれが人に物を頼む態度かよ。教えて欲しけゃ跪いて『教えてください、修治様』っつってみろ」
「………」
「………」
「…チッ、じゃあいいや。俺、自分でやる」
「……オイィィ!!!」
不意に白い影が視界をスウッと横切った。紙飛行機だ。三角形の薄い翼に風をはらみ飛行機はフワリと浮く。微かに翼を揺らしながらゆっくりと部屋を旋回をする。僕も、子供たちも、目の前を通り過ぎて行く紙飛行機を目で追う。飛行機は部屋の端まで飛んで壁にぶつかりスコンと落ちた。きっとそんなに長い時間ではなかったはずだけど、時が止まったようなっていうのはこういう瞬間を言うのかなと思う。ゆっくりと飛んで行く紙飛行機に見えるはずのない風を見たような気がした。ほんの少しの沈黙のあと、子供たちの歓声が上がる。
「すげェだろ? 飛行機作りてェヤツはサッサとやること済ませろ。って、俺は今からもっと飛ぶヤツを作るけどなァ」
そう言った先生がニヤリと笑うと、子供たちは「やる!やりたい!」と声を上げバタバタと机についた。バサバサと音をさせながら本やノートを開く。そんな子供らを眺めながら僕は変な顔でもしていたのだろうか。視線を感じて振り返る。
「修治、アイツら勉強するってよ」
先生はクイッと顎で子供らを指した。そして「お前は飛行機作んねェの?」と訊いてくる。子供らみたいにはしゃいで「やる」と答えるほど幼くもなければ、拗ねて「やらない」と答えるほどガキでもなくて僕が黙っていると、先生は僕の答えを待たずに「どこかにあったよなァ」と独り言のように言うと席を立った。
先生がすぐに答えない僕に対して怒った訳でも呆れた訳でもないことはわかっている。ただ面白くない。先生の大人の余裕もだし、青臭いガキの自分の余裕のなさも、だ。
「あ、修治」
「なんですか?」
「アイツ、帰って来てんだろ?」
「アイツ?」
「アイツだよ。金之助。帰って来てんだろ? そう聞いたぜ」
「あの人、知ってんですか!?」
「この辺りで育ってあの馬鹿を知らねェヤツなんかいねェだろ」
「あ、そうか…」
「で、帰って来てんだろ?」
「帰って来てますよ。昨日、団子食ってるあの人に会ったきりですけど」
僕が溜め息混じりにそう答えると、先生は面白そうに笑う。
「アイツ、嫌いか?」
「…いえ、そんなことは…」
「まあ、アイツは馬鹿だからなぁ」
先生はそれだけ言うと、煙草を吸って来ると部屋を出て行く。さっき先生が飛ばした紙飛行機が部屋の隅に落ちたままになっていた。それを拾う。壁にぶつかったときにしゃげてしまった飛行機の先端を直してから構えて飛ばしてみた。飛行機はくるりと旋回するとそのまま落ちた。
「なんでもカンタンにはうまくいかねーんだな…」
どうやったら飛ぶのかなんてことはあの先生は教えてくれない。教えてくれと頼んでも「テメェで考えろ。そのために立派な頭がついてんだろ?」と笑うだけだろう。墜落した紙飛行機を拾った。先生の手を離れ飛んで行く飛行機を思い出す。キレイだったなと思う。僕と、先生と、どこが違っていたんだろう。
「ホラ、作るぞ」
後ろで声がして振り向くと工作用紙をピラピラさせた先生がいた。
「どうやったら綺麗に飛ぶんだろうなぁ」
遠くを見ながらそう言った先生のその声は少し嬉しそうだ。ガキみてェだなとちょっとおかしくなる。僕も空を飛ぶ飛行機を思い描き、どうしようかなと考える。遠くへ飛ばすにはどうしたらいいんだろうなぁと、空を見上げた。
(了)
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