01

 僕が生まれるよりもずっと昔に世界はパァンと弾けたらしい。と言っても、世界大戦だとかそうことではなく。いや、世界のあちこちで飽きることなく殺し合いはしていたらしいが。でも、それは今も変わらないし、この先も変わらないだろう。とにかく肥大化した世界は行き詰まり、一つの国が耐えきれずに自爆すると次々に連鎖していった。あぶく銭はその名のとおりあぶくとなって消え、世界は失業者で溢れかえった。悪いことってのは重なるらしく各地で大きな災害も頻発し世界は疲弊した。らしい。『らしい』っていうのは、なにしろそういうことになったのは僕が生まれるずいぶん前のことで確かなことは僕にはわからないからだ。

 まあ、でも、そんなことがあって人々の暮らしはそれまでに比べて多少慎ましやかになり、ちょっとした民族主義みたいなものが流行ったりもしたみたいだ。それでもテクノロジーが退化することはなく進歩を続けて人々は火星へと移り住むようになり、今や頭の上を通り過ぎるのは飛行機ではなく宇宙船だったりする。国はなくなりはしていないけどこうも人の行き来が容易になると、その人にとってどこに住んでいるかではなく自分が何人であるかってことが重要になるらしい。世界中の、いやこの宇宙のどこにいたって僕という人間は、日本人にしかなり得ない。多分そんなことなんじゃないかと思う。

 塾から帰って来て玄関を開けるとそこに並べられている靴が一つ多い。そのボロボロの靴には心当たりがある。前に見たのはずいぶん前のことだってことは思い出せたが、いつだったかなんてことはっきりとは思い出せない。つまりそのぐらい見てないってことだ。そして、この靴とその持ち主がこの家に現れるとロクなことにならないってことも思い出した。チラッと横目でそれを見たあと軽く溜め息を吐き、自分の靴を脱いだ。

 昔は学校なんてのがあったらしいが、今は試験を受けて合格すれば修了証が貰える。読み書きとちょっとした計算ぐらいなら出来ますって証明書みたいなモンだ。自分ンちで勉強するって選択肢もあるが、大体は親が「そういや、うちの子いくつになったんだっけ。」とふと思い出して子供の意見などお構いなしに近所の塾に放り込まれるのが普通だ。僕も6才の誕生日を迎えるとすぐに母親に近所で評判の塾に連れて行かれ、「うちの子、ひとつよろしくお願いしますね。」と有無を言わさず放り込まれた。修了証を貰うと塾をやめてさっさと働き始めるヤツも多いが、そうじゃないヤツもいる。僕はそうじゃない方のヤツで働きもせず親のスネをかじりながら今のところダラダラと暮らしている。

 この時間に親が両方とも家にいないのはわかってはいるが、刷り込まれた習慣とでも言えばいいのか、とりあえず「ただいまー。」と言いながら家に上がった。今日は靴の持ち主がいるだろうが、多分寝ている。僕の母親の弟である靴の持ち主だが、実は僕自身は本人には数度しか会ったことがなかったりする。ちなみに記憶が鮮明なのは前回だけだ。つまり彼がロクでもない大人だという僕の認識は、僕の実感ではなくまわりの評価によるものだ。でも、彼を知る人たちの彼に対する評価はどれもそれほど変わらないので僕の認識も間違ってはいないだろう。

 腹減ったなぁなどと考えながら居間へと向かった。襖を開けると「よぉ。」と声がしたので顔を上げた。そこにはこちらに顔だけ向け並べた座布団の上にゴロンと寝転がったままみたらし団子を頬張っているだらしないおっさんがいた。僕の予想は外れた。アンタが頬張っているソレはうちの売りモンだろうが。と思ったが、口には出さずにおっさんをじっと見ていると、おっさんは「ん? お前も食うか?」と食べかけの団子の串を僕に向かって差し出した。「いや、いらない。」と答えると、「あっそ。んじゃ、俺、食っちゃうよ。」と、顔を庭の方へ戻し、こちらに背を向け団子をもっちゃもっちゃと食う。団子を食うおっさんを見ながら、この人に対する自分の認識は間違ってなかったと確信した。

 開け放った窓から入ってくる春の陽射しは明るく暖かそうだ。おっさんも気持ちよさそうに寝転がっている。秋と太陽の位置は変わらないはずなのに春の太陽はどうしてこんなにキラキラしてんだろうなと、ふと思った。おっさんの向こう側に見える庭には、母親が植えて食べきれなかった小松菜がとうとう黄色い花を咲かせている。花もいくらかはおひたしにして食ったが全部は食いきれずにとうとう満開になったのだ。ちなみに小松菜の花のおひたしは、菜の花よりエグ味がなくうまかったりする。菜の花によく似たその黄色い花の眩しさに目を細めた。

 僕はおっさんの後ろ姿に視線を戻した。今見てるおっさんは、僕の記憶の中のおっさんとはちょっと違っていた。記憶の中のおっさんはもっとおっさんだった気がする。記憶の中のおっさんは今より若いはずなんだけど、目の前にいるおっさんはだらしないけど思ったよりおっさんぽくない。腕捲りをしたヨレヨレのシャツの袖から伸びる腕にはしっかりと筋肉はついているがゴツくはない。ジーンズはすっかり色褪せて裾は擦り切れている。裾から覗く素足はそんなに大きくもなく薄っぺらくて華奢な感じがした。こちらからは足の裏しか見えないが、細い尖った踵と細くて長い足の指がそんなふうに見せるのかもしれないと思った。

「オイ。」

 声がした。聞こえた声にそう言えばこの人の声は覚えてなかったみたいだなとぼんやりと思った。

「オーイ。」

 再び声がした。おっさんは起き上がり胡座をかいてほんの少し前屈みになり覗き込むように僕を見上げている。

「なんですか?」

 僕はそう答えると、腕を組みこちらを見ているちょっとクセのあるボサボサの髪に無精ひげのおっさんを見た。

「そりゃ、俺のセリフだ。」

 そう言ったおっさんの傍らには山盛りの串の乗った皿がある。アンタ、どんだけ食ったんだよ。と、思った。と、思ったが、口に出していたらしい。

「腹減ってたんだから仕方ねェだろ。」

 おっさんは文句あんのかと口を尖らせた。例えば、10才と22才の12才差と17才と29才の12才差とでは、感じる年の差はずいぶんと違うようだ。おっさんと僕の年の差が12才だという確証はないのだけど、前回会ったときに飲んだくれて僕の母親に怒られていたからたぶんそのぐらいは離れているんだと思う。あのときは自分と比べてずいぶんと大人に思えたおっさんだったが、何年か経って目の前に現れたおっさんはさほど大人に見えない。いや、大人には違いないが、どうしようもなさが増してる気がする。もしかすると僕の方がよっぽど大人なんじゃないかと思えてくる。

「お前さ〜、さっきから俺のこと怪しむようにじーっと見てるけど、もしかして俺のこと覚えてねェの? ま、それも仕方ねェかなァ。前、会ったときゃ、お前、こぉんなだったもんなァ〜。」

 そう言って、おっさんは僕をからかうように笑い、ちょっと肩を竦めると子猫を手のひらに乗せているかのような仕草をした。ンなワケあるかと思ったが突っ込むのはやめた。いちいち相手をしていると面倒なことになりそうだ。おっさんは俺に構うことなく昔話をペラペラとひとり喋り続けている。団子の串を1本摘みプラプラさせるおっさんを見ながら、思わず溜め息が漏れた。

「あ、そうだ。お茶ちょうだいよ。」

 おっさんはひと通り喋るとひと息吐き、僕を見て思い出したようにそう言った。

「…わかりました。」

 本当に面倒くさいなと小さく舌打ちをし、お茶を淹れた湯のみをドンと座卓に置いてやった。おっさんは「サンキュ。」と言い、「アチチ、」と呟きながら湯のみに息をフゥッと吹きかけた。僕はハァと息を吐いてから目に入ったおっさんの傍らに置かれたままになっていた皿を拾うと台所へと下げる。チラリとおっさんを見ると、おっさんは満足げに茶を啜り、胸のポケットからしゃげた煙草の箱を取り出した。箱の形を整え、煙草を1本取り出す。少し曲がったそれを指で摘んで伸ばしてから口にくわえた。

 煙草をくわえたおっさんを見ながら、今みたいな瞬間に大人と子供の差ってヤツが出るんだなと思った。慣れた手つきとでもいうのだろうか。それは僕よりも確実に長く生きているってことを証明してるみたいだ。火を点けようとおっさんが取り出したライターは、昔ながらのガスライターでもはや骨董品に分類されてもいいものだと思う。今は補充用のガスを手に入れるのも相当大変なはずだ。おっさんはそんな骨董品を惜しむ風もなく、無造作に火を点けた。白い煙が漂い、煙草の匂いが鼻を擽った。おっさんがヒョイッとライターを振るとカチンという心地よい音をたて蓋が閉まる。少しだけ眉間に皺を寄せ頬杖をつき煙草を吸うおっさんは、僕が生まれるずっと昔に作られた映画に出てくるワンシーンのようだなと思った。

 おっさんが僕の視線に気付き「ん?」という表情をした。

「あ、そうだ。僕、おじさんのこと覚えてますよ。母さんの弟でしょ。金之助おじさん。」

 僕がそう言うとおっさんの目が一瞬泳いだ。僕はそれを見逃さなかった。このおっさん、人に自分のこと覚えてんのかとか威張って訊いていたけど、おっさんの方が僕の名前を覚えてないようだ。

「アンタ、僕の名前、覚えてないんでしょ。」

 僕がそう訊くと、

「そそそそんなことねェよ。」

 アホなおっさんは途端に落ち着きがなくなり、僕から目を逸らして答えた。その姿に見事なまでに期待を裏切らない人だなと、寧ろ感心する。

「へぇ〜、じゃあ、僕の名前、言ってくださいよ。」

「え〜、ホラ、カッコいい名前だよなァ!」

「いや、ありふれた名前だと思います。」

「アレ? そうだっけ?」

「そうですよ。」

 どうしようもない男だと口を揃えて言っていた僕のまわりの大人たちの意見に間違いはなさそうだ。ふと見たおっさんの手元の煙草の灰が落ちそうで声をあげかけたとき僕の母親が部屋に入って来た。

「金ちゃん! 煙草! 灰! 落ちる!」

「は?」

 ポロリと灰が座卓の上に落ちる。

「ちょっと! ちゃんと灰皿ぐらい出してから吸いなさいよ!」

「俺、悪くねーよ。だって灰皿なんかどこにあんのか知らねーもん。ココ、人ンちだし。」

「もうッ! 修ちゃん、このバカに灰皿出してやって!」

「だそうだ、修ちゃん。灰皿出して。」

 おっさんはニヤリと笑って僕を見た。僕が黙って灰皿を出すと、ギュッと煙草を灰皿に押し付け火を消した。

「んじゃ、俺、出かけてくっから。久々にパチンコ行こっかなー。ここにしかねェもんなー。」

「ご飯は? 晩ご飯はどうするのよ?」

「あとで電話する。」

 おっさんは意気揚々と手を振りながら出て行った。母親は大きな溜め息を吐く。

「あの人、いつまでいるの?」

 僕は母親にそう訊くと、彼女は呆れた表情で、

「知らないわよ。好き勝手にやるわよ。本ッ当に変わんないだから。どうしようもないったらありゃしないわ。」

と、答えた。

 あのおっさん、しばらくは居着くんだろうな。

 僕は灰皿の上の吸い殻をまじまじと眺めた。



(了)

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