12
あの人が逝ったのは朝焼けの頃だったと聞いた。
葬式には行けないと言った自分に「仕事だって言うなら仕方ねェけどなァ…。いいのか? 本当に」と受話器の向こうから聞こえた近藤の残念そうな声も覚えている。
あれから幾度か朝焼けを見た。
東の空がうっすらと白み始める。山の稜線にかかる薄い雲がやさしい色に染まる。やがて昇る日の眩しさに目を細めると新しい一日が始まる。
後悔に胸は痛んだが、この光景はやさしくたおやかな彼女のためのものだと思った。
この痛みが消えることはないだろう。
ただ慣れるのを待つだけだ。
*
ハクモクレンが咲いている。その向こうには淡く霞む青い空が覗く。花の白と空の青がきれいだ。
懐かしそうに空を眺めながら「なかなかいい国だったぜー」と笑った銀色の旦那を思い出した。
「チッ!」
沖田はキュッと眉を寄せ、舌打ちする。
「ヤなヤローのことを思い出しちまった」
そう小さく呟いた。
あの旦那がそう言うんだからあの国は悪い場所ではないんだろう。
旦那の話してくれたいろんなものはあのヤローを慰めたりしてるんだろうか。
沖田はそこまで考えて再び舌打ちした。
それじゃあ、まるでアイツが後悔か何かしているみたいじゃあねェか。
それも気にくわない。
あのヤローは後悔も何もせずに自分勝手に生きてりゃいい。
毎日見ているはずの風景なのに、日々の僅かな変化にはなかなか気がつかないものらしい。いつのまにか降り注ぐ日の光は柔らかく色づいている。
『ねぇ、総ちゃん、仕方がないことなんていくらでもあるのよ。でも、それは諦めなんかじゃないのよ』
そう言ってきれいに笑った姉を思い出す。
「チッ。あんなヤロー、カンガルーにでも蹴られて死んじまえばいいんでィ」
足元には茶色く朽ちたハクモクレンの花びらが落ちている。後悔しているのも、救われたいのも、あのヤローじゃなく自分なんだと思った。
*
土方は街の片隅に置いてある灰皿の前に立ち煙草をふかしていた。
日本を出るときに免税店で目一杯買っておいた煙草はとうの昔に吸ってしまった。やめようかと思ったが、結局は1000円近くする煙草を買い続けている。
若い男に声をかけられた。男は明るく笑いながら『1本ちょうだい』と言う。土方はまたかとくわえていた煙草を口から放し、煙をフーッと吐いた。煙草は高くてバカスカ吸うなんてなかなかできない。若いならなおさらだろう。だから金はないが煙草は吸いたいとなると人から貰うしかない訳だが、この国の人間は躊躇いなく『くれ』と見知らぬ人間に話しかけてくる。
土方は一瞥してからポケットから煙草を取り出した。『ほらよ』と箱を差し出せば、ニコッと笑い悪びれたふうでもなく煙草を1本取り出す。土方がライターに火を点してやると、男は少しかがみ眉間に皺を寄せくわえた煙草に火を点けた。
男は短く「Ta」と言った。さして役にも立っていないガイドブックに書いてあったオーストラリア英語は本当に使われているんだと妙に感心する。
吐き出された煙が昇って行く空を見上げる。この国の空はこの国に住む人間と一緒であっけらかんとしている。
忘れたくてここに来たんじゃない。
この痛みはこのままでかまわない。
そして、アイツが自分を憎んでくれていたらいいのにと思う。
短くなった煙草をギュッと灰皿に押し付けた。
土方がさてと立ち去ろうとすると『いい一日を』とお決まりのフレーズを言われた。
『いい一日を』
傷ついているのは自分だけじゃない。誰しもが何かの痛みを抱えたまま生きている。その言葉はそんな自分たちへのささやかな祈りかもしれない。
そして、憎んでくれたらいいなんて、自分は傷ついたままでいいと言いながらどこかで救いを求めていたんだなと思う。
フッと小さく笑いが漏れた。
憎まれようが、忘れられようが、いいじゃないか。この痛みがなくなりさえしなければ。
大きな通りを渡ると、キョロキョロと辺りを見渡す落ち着きのない東洋人がいた。
「アンタ、日本人だろ。あそこのイタリア人のやってるデリはうまいよ。俺もここに来てすぐに教えてもらったんだ」
そう言ってから『いい一日を』と手を上げた。
(完)
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