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今日も今日とて旦那は不在。
出張=接待=キャバクラでウッハウハ、なんていう旦那が聞いたら眉を顰めること請け合いの妄想にもやもやしていたら友人からお誘いが掛かった。学生時代からの友人であるナミだ。ちなみにすっごい美人でボンキュッボーン。サンジ君という彼氏と長く付き合っているけど、籍を入れる予定はないのだそうだ。曰く「結婚って制度に囚われたくないのよねー」だそうで、実際楽しそうにやっているし、彼氏ともなんだかんだラブラブ。羨ましい限りだ。
会って早々、私の顔を見たナミは何故か一瞬目を見開いた。
「おっさんで溢れた大衆居酒屋と若者でいっぱいのとこ、どっちがいい?」
にんまりと笑ったナミは大抵よからぬことを考えていて、今目の前のナミは正に大きな目を細めてにんまりしてるんだけど、こういう時のナミには逆らわないほうが身のためだ。
「んじゃ若者のほうで」
「了解。よかったわ、そう思えるならまだ大丈夫よ。今日は思う存分楽しみましょう!」
「うん、よく分からないけど従うしかないってことは理解した。それにしてもおっさんって…さすがに選ばないって」
「そう?今のアンタの顔見てたら、大衆居酒屋で演歌聴きたい気分かと思って」
なんだそれは。っていうかそんなにやさぐれた昭和の女みたいになってんの、私。なにそれやばくないか。思わず頬に手を当てて肌の張りを確認してしまった。
「大丈夫よ。ストレス発散したら、お肌だってプルップルになるから」
「…恩に着ます」
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「ナミ、ここって…」
「ジムよ」
ナミに連れられやって来たのは近所のショッピングモールに併設されたスポーツジムだった。買い物の時によくチラシを配ってるのは見かけるけど、中に入るのは初めてだ。
「あんたは飲んで愚痴るより、身体動かすほうが向いてるでしょ?」
「ナミ…ありがとう」
感動した。一日体験用の用紙に記入するよう言われた私は、こくこくと頷いて言われるがまま空欄を埋めていく。
「えーっと…なになにご紹介特典?今お友達を紹介したら5千円キャッシュバック…ってナミ?」
「あ、あはは。やだもうちゃんと折半するってば」
バレたか、とおどけて舌を出すナミは清々しいほどに悪びれていない。でも不思議と許せてしまうのは、スーパーボイーンで小悪魔要素満載なナミだからこその特権だと思う。女だって美人には弱いのだ。
スポーツウェアを借りて、運動器具がたくさんあるフロアに行くと、そこにいるのは会社帰りのOLさんや若者が殆どで、久しくこういう雰囲気から遠ざかっている私は少し尻込みしてしまった。
「ほら、なに突っ立ってんの。今日はヨガのクラスがあるから…って、休講?!」
「あらら。残念だったね」
このジムの売りはホットヨガだそうだ。残念ながら今日はやってないらしい。がっかりしたって?いいえ全く。むしろほっとした。
「…よかった」
「そっか。アンめちゃくちゃ身体硬いもんね」
ナミは、ホットヨガなら身体柔らかくなるから平気よ。なんてどうにも信じられないことを言って笑った。
「んじゃ、とりあえず走ろっか?」
「…早歩きくらいでお願いしマス」
運動なんて久しくしてないから、ついつい及び腰になってしまう。とりあえずナミの隣のマシンに上がってみた。ナミはというと、すでに颯爽と走り出している。
「使い方分かる?スタートは右上のボタンよ」
「あ、うん。大丈夫そう」
ボタンなんて大して多いわけじゃない。スピードアップとダウン、そしてタイマーくらいなもんか。っていうか急に超高速で動き出したらどうしよう。ぜひ、亀でも歩けるくらいのスピードからデビューさせていただきたい。えっと、スピード下げるボタンは…あぁこれか。
ポチポチポチポチポチ…
「ってどんだけ押すのよ。そんなに遅くしたらジム来た意味ないでしょ?」
「えーだって、急にぎゅいんってなったら怖いじゃん」
呆れ顔のナミのほうを向いたまま、スタートボタンを押した。
「きゃっ」
「おっと」
想像してたより断然速かった。
体勢を崩して転げそうになったら、トンと誰かに支えられた。どうやらちょうど後ろを通りかかった人に助けられたらしい。
「す、すみません」
やだもう恥ずかしい。
慌てて顔を上げると、なかなか素敵な体格をした男の子がいた。あれ?っていうかこの子。えっと確か名前は…
「…サッチ」
「ん?あ、この前の」
つい名前を口にしてしまった私に、サッチはこちらを見つめて、あ、と驚いたような顔をした。ポロシャツに短パン姿のサッチは少し砕けた雰囲気で、前に会った時の礼儀正しい青年という印象とは少し違ったけど、実直そうな人柄はそのままだ。
「覚えてないと思うよ?」
もしかして名前を思い出そうとしてくれてるんだろうか。顔を覚えてるだけで十分すごいのに。うんうんと考え込んでいるサッチに申し訳なくなる。覚えてなくていいよ、むしろ覚えてる方がおかしいんだから。って私が言えた義理じゃないけど。
「思い出した!アンさんだろ?」
「やだ、ウソ」
なんて記憶力だ。すごいと驚くと同時に嬉しいという感情が胸に溢れて、そんな自分に少し戸惑った。
「あら、サッチじゃない。アンと知り合いだったの?」
「あー知り合いっていうか、お客さんだな。この前荷物届けたんだ」
ナミとサッチはジムで知り合った顔見知りなんだとか。ナミが不思議そうに首を傾げる。
「荷物って?」
「俺、白猫なのよ」
「そうそう、白猫。ほんとに時間ぴったりに来てくれてびっくりしちゃった」
へぇやるじゃない。感心しているナミの隣で、私は一人ドキドキしていた。支えてくれたのはほんの一瞬だったけど、ぶつかった胸板はすごく硬かったし、男らしくてかっこよかったなぁなんて。しかもまさか名前を覚えてくれていたなんて。毎日何軒も配ってる筈なのに。
「それにしてもさ、よく覚えてたね?」
「ん?あぁそりゃな。綺麗な人だなって思ったからよ。また会えてすげぇ嬉しいわ」
まさかこんなに直球な言葉が返ってくるとは思わなかった。もちろん鵜呑みになんてしていないし、お世辞だってことくらい分かってるけど。
「ちょっとサッチ。アンはウブなんだから、からかっちゃだめよ」
「からかってねぇし」
サッチが少しむっとして顔を顰める。その反応を見て、私は少し舞い上がってしまった。あ、なんかやばい。
「ナミってば、ウブはないでしょ。私これでも結婚してるんだし」
からかったわけじゃないのだと不機嫌になったサッチは、ただのお世辞にしては少し度が過ぎているように感じた。私の過剰反応だってことは分かってる。でも繰り返しばかりの毎日に不満を抱えている私みたいな女に、あらぬ期待を持たせるには十分すぎた。謂わばサッチに対してというより自分を戒めたのだ。ちょっとあんたのぼせてんじゃないわよと。
「そうよー。アンの旦那はあの白ひげグループの幹部様なんだから、サッチには到底太刀打ち出来ないわね。残念だけど諦めなさい」
「ちょっと、ナミ」
「へぇ、」
一言そう呟いたサッチは、一旦言葉を切って頬杖をつくように肘をマシンに置いた。少し前かがみになって私の目を覗き込む。
「でも変わりたいって顔してる。なぁ満足してんの?今の自分に」
不意打ちの色気に当てられた。
今思えば、あの時即座に返事を返せなかったことがいけなかったんだろう。
言葉に詰まった私を肯定と取ったのだろう、サッチは微笑んだ。もしその笑顔が、年上の女と火遊びをしてみたいなんていうギラギラしたものだったら、そこまでだっただろう。でもサッチの笑顔はまるで無意識に零れたような、嬉しいとばかりの純粋なものだったから、私は不覚にもときめいてしまった。
【牽制球が直球ストレートに打ち勝つ可能性なんて】
考えないほうがいいに決まってる。
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