▼ 募る気持ちとは裏腹に
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家に戻ってオイルを変えて、夕食を作った。ベタだけどハンバークだ。デミグラスソースを作るとアンは目を丸くして驚いた。
「サッチ、コック?」
すごいすごいと喜ぶアンの頭を撫でると、アンは嬉しそうに俺に抱きついてキスをねだった。んーーと唇を尖らせて背伸びをするアンが可愛くて、俺は今日何度目かわからないほどの笑い声をあげた。
夕食を食べた後、二人で皿を洗った。
アンがハンバークのお礼にと言ったので、俺は洗っているアンを後ろから抱きしめつつその様子を眺めていた。そのうち男の本能というかなんというか、つまりアンに色々したくなった俺はここぞとばかりに好き放題満喫していたら、アンは皿を割った。申し訳なさそうにするアンにこっちこそ申し訳なくなる。だってどう考えても邪魔したのは俺だからな。
でもそんなアンも、邪魔するなと怒っているアンも全部が愛おしくて、俺はずっとニコニコ笑っていた。
皿洗いも片付いてさぁコーヒーでも飲んで休憩するかという段になって、アンは時計を見て眉を下げた。
「私、そろそろ行かなくちゃ」
「ん?え、帰んの?」
なんで?ってお前そりゃそうか。
すっかり一緒に住んでいる気になっていたが、よく考えたらアンにも家くらいあるだろう。
「あぁーそっか。じゃあ送ってくよ」
少々、いやかなり残念な気がしたが丸一日一緒にいたのだ。確かに帰らないといけないかも知れない。
「ううん、平気。サッチありがとうね!」
楽しかった!
ニコニコ笑って玄関まででいいと言うアンと押し問答。
「送るっての」
「ここで平気だってば」
「あぶねぇじゃん」
「まだ9時前だよ?」
終わりの見えない言葉の隙間に、ピィーーーと呑気な音が響いた。やかんだ。コーヒーを飲もうとセットしておいたレトロな俺のお気に入り。でも今はすげぇ邪魔。
「サッチやかん怒ってるよ?」
あははっと笑ったアンに、ちょっと待ってろと言って慌ててキッチンに戻った。
火を止めて玄関に戻ると、もうアンの姿はなかった。履くものもそのままに慌てて外に飛び出したけど見つからなかった。
キツネにでもつままれたような気分だった。
よく考えたらアンの連絡先も聞いてなかったし、どこに住んでるのかも、どんな仕事をしているのかも、アンの苗字さえ俺は知らなかった。いや、もしかしたらまだ学生だったのかもしれねぇな。
呆然としながら部屋に戻って時計を見ると8時45分。
アンと出会ってちょうど24時間。
なぜか妙に感心した。
*
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「お客さん、もう閉店ですよ」
「あぁ…悪ぃ」
今日もまた、陶器の黒猫に迎えられて古ぼけた木製のドアをくぐる。
グロスが艶やかな唇と大きな目、流れる黒髪に真っ白な肌。若くて、可愛さの中にちらりと見える色気。そしていちごの板チョコと焼きそばとチャーハンとハンバーグが好きで、朝一の牛乳でお腹が痛くなるというあの子を探して。
笑うととても可愛くて、怒ると頬をふくらませて、お化けをすごく怖がったあの子を探して。
「あの子はたぶん…もう来ませんよ」
そう言って目を伏せるマスターの声に、もう何度目か分からない聞こえないふりをして店を後にする。
身に突き刺さる寒さにコートの襟を締めた。
「なぁアン・・・あっという間にまたイチゴの季節になっちまうぞ」
ぽつっと零した言葉は冬の空気にふわっと溶けて消えた。
店の名前は「Again」
またいつか、とは随分期待を持たせるもんだ。
【募る気持ちとは裏腹に】
君の笑顔はどんどん薄れて
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