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▼  V 

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「こんにちはー」

週末の昼下がり。あれから私は珈琲喫茶モビーディックの常連になった。常連、なんて自分で言うもんじゃないかもしれないけど、きっとマスターなら頷いてくれる。

「ハワイコナ、下さい」

マスターが静かに頷いて、棚に並んだ瓶を取り出す。少し顔が笑って見えるのは、ここ最近私がメニューにある珈琲を片っ端に飲んでいるからだ。
珈琲は得意じゃない。苦いし、寝られなくなるから。
長い夜って結構辛い。

マスターが豆を挽き始めた。年代物だろうミルがハンドルの回転に合わせてキュルキュルと音を立てて、店内に珈琲豆の香ばしい香りが広がった。

「あ、ミルク要らないですよ。ハワイコナのカフェオレじゃなくて」
「最初の一口は、だろい?」
「失礼な。半分くらいはいけますよ」

マスターがひょいと片眉を上げた。
喉で笑うようなその笑い方が、私は好きだ。

「もうちょっとでミルクなしで全部飲めると思うんだけどなぁ」
「無理して飲むもんじゃねぇよい」

「無理してるわけじゃないよ。マスターの淹れてくれる珈琲は美味しいって思うの。ただあんまりいっぱいだと、まだ身体がびっくりするだけで」
「そりゃどうも」

沸騰したやかんがカタカタと音を立てた。ゆっくりとお湯を注いで、豆を蒸らす。のの字を描くように静かに注がれるお湯は、活き活きしている。
マスターが珈琲を淹れている間は、話しかけない。これはこの店での唯一のルールだ。フィルターを見つめる真剣な眼差しを、私はいいなと思う。

「…見すぎだよい」
「あ、ばれました?」

眉間に皺を寄せる不機嫌そうな顔も、さもしょうがねぇやつだとばかりの表情も、すごくいいなと思う。

私はマスターが好きだ。
失恋したばかりだけど、目の前で散々泣いたばかりだけど、いつの間にか本気で好きになっていた。自分でも驚いたけど、本当に本当に好きなのだ。夜が寂しく感じるほどに。恋焦がれるというのはこういうことを言うのだろうか。前の彼氏を想って泣いた夜よりも、マスターのことを考えて過ごす夜のほうがずっとずっと苦しい。

そして昨日の夜、私は決意した。当たって砕けてやろう、と。そもそも黙ってみているだけなんて私には似合わないから。タイミングよく店内に他に客の姿はない。告白するなら今だ。
コーヒーカップを傾けて珈琲を飲み干したら、口の中に苦味が広がった。

「お、全部飲んだのかい」
「マ、マスター!」

「…?」
「すっ好き!…な人とか、い、る?」

マスターがミルを手入れする手を止めて、は?という顔で此方を見た。
しんと降りた沈黙に、古時計がボーンボーンと二度鳴った。二時か。
うん、そうだよね。今まで結構当たり障りのない話ばっかりだったし、いきなりどうしたんだって思うよね。そりゃ、は?だわ。
…わ、私のばかやろう。

「…なんでもないです」

カタンと音を立てて座り直した。どうやらつい立ち上がってしまったらしい。一瞬前の気合の入りまくった自分を思い出して居た堪れなくなった。とてもじゃないけど顔を上げられない。カウンターの木目を見つめていると「はははっ」マスターが笑った。いつもと違って声を上げて笑う様子に驚いてパッと顔を上げる。

(マ、マスターが笑っ…!)

どこかのツボを突いたのか、マスターはなかなか笑い止まない。堪え切れない笑いに背中を震わせて、目尻に涙まで浮かべている。笑わないでと言おうと思ったけど、口にはできなかった。
マスターは基本的に、表情がないとは言わないけど変化は限りなく乏しい。ひょいと眉を動かすとか、顰めるとか、ちょっと下げるとか、感情の変化の全てを眉の動き一つで済ませてしまうことが殆どで。だからこそ、今こうして笑うマスターはとても珍しい。新しい一面を見れた気がして、胸がほわんと温かくなる。

じっと見ていたいけど、見たら見たで何故か照れくさいような嬉しいようなむず痒い気持ちになるし、そわそわと落ち着かない。結局私はマスターが笑い止むまで、緩々と緩んでしまう口許を必死で引き締めながら、何度ももぞもぞと座りなおして、ちらちら盗み見るというちょっとよく分からない行動を繰り広げた。
どうしよう。私、この人のことすごく好きだ。

「…どうだろうねい」

漸く笑いが収まったマスターは、疲れたとばかりにはぁとひとつ溜息を吐いてからそう言った。一瞬なんの話かと首を傾げてしまう。あ、そうか。好きな人がいるのかって…そこまで思い至った途端、私ははっと息を呑んだ。
誤魔化すようなその口調の意味するものはきっと、そういう人はいないってことなんじゃないかな。そう思うとまた顔がにやけてしまって。

「ゴ、ゴホン…そ、そうなんだ。へぇ」

平然を装って何食わぬ顔で返事をしたけど、マスターは何故かまた笑った。

「もう笑わないでってば!」

そう言って怒ってみせたけど、本当は怒ってなんかなくて。何故だかそのやりとりがひどく懐かしく感じた。まるで遠い昔に何度も繰り返したような気がして、例えば、前世とかいうものがあるとしたら、私たちは一緒にいたのかもしれない、なんて馬鹿みたいなことを考えた。


【涙のその先で見つけた陽だまり】




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