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次の週末は晴れだった。
だから私は街に出た。

「借りたものはちゃんと返さなきゃね」

手に持った男物の傘に視線を落して、目の前にある年季の入った濃褐色の扉を押した。アンティーク調というのだろうか、艶々に磨かれた見るからに雰囲気のある扉を前にすると妙に緊張する。

カラン。
ドアベルが軽いような重いような、涼しげでいて厚みのある音を立てて、カウンターの奥に立つ男が顔を上げた。

「…こんにちはー」

恐る恐る声を掛けた。視線が合うと男はほんの一瞬こちらをじっと見つめて、すぐにあぁと合点がいったような顔をした。あぁあの時の、ってなもんだろう。

「いらっしゃい」

ゆるりと目尻を下げて、視線で座るように促す。必要以上の言葉もなければ会話もない。だけど歓迎してくれているのだろうということは伝わった。そわそわ緊張していると思われたくなくて、私は平静を装ってカウンターの椅子に座った。腰を下ろしてから、そこが男が促したまさにその席だったことに気付いて、なんだか恥ずかしくなった。だってこれじゃあ初めての店で心許ないですって言ってるようなもんだ。
あ、これどうしよう。ってか座る前に返せばよかった。今更ながら手に傘があることに気付いた。傘を見つめてふむと考える。

「それ、返しに来てくれたのかい」
「あ、そうです」

「近頃の若者にしちゃあしっかりしてるじゃねぇか」
「…おっさんか」

「…何にする?」
「あ、はい」

つい零れ落ちた言葉に、男の声が一瞬低くなった。思わず姿勢を正して失言を誤魔化すように手元にあったメニューを手繰り寄せる。そこには「コーヒー」や「紅茶」という飾り気のない単語ではなく「コナ」や「ヌワラエリアBOP」と馴染みのない名前ばかり。正直言ってちんぷんかんぷんだ。

「…お手上げです。珈琲お願いします」
「よい」

全部珈琲だと呆れられるかと思ったけど、男はただ頷いてカウンターの反対側に向き直った。手元が動いているところを見るとどうやら希望通り“珈琲”を淹れてくれるようだ。無駄のない動きはとても洗練されたそれだった。

挽きたての珈琲の香ばしい香りが心地よくて、店内は適度な暖かさ。
先ほどまでの緊張が解けてきた。大きな背中から視線を店内へと移す。
木製のテーブルは艶々と品のある光沢を放っていて、一つのテーブルに4脚ずつあてがわれている椅子も落ち着いたシックな色合いで統一されている。
あ、古時計。入り口の右奥、丁度カウンターの真正面に大きな振り子時計が置かれていた。カッチコッチカッチコッチ。先ほどから心地いい音色を奏でていたのはこの左右に揺れる振り子のだったらしい。
店内奥に穏やかそうなカップルが一組、そして窓際では老婦人が一人ゆったりと読書を楽しんでいた。
タイムスリップでもした気分だ。

窓の外を携帯を耳に押し当てた若者が通り過ぎた。未来を覗いているような錯覚に陥って、酷く不思議な気持ちになった。心地よかった。穏やかな思考の波に耽っていると、目の前にコトリと湯気の立つマグカップが置かれた。

「…これって」
「カフェオレだよい」

「もしかして子ども扱いしてます?」
「嫌いかい?」
「…好きです」

なんだか悔しくて、でも確かにカフェオレは大好きだから、マグカップを両手で包みながらもごもごと返事を返した。

「あなたが店長さんなの?」
「あぁ」

「ソムリエ?」
「そりゃワインだ。バリスタってんだい。でもまぁ俺はただの喫茶店のマスターだよい」

横文字は好きじゃないなんて言うから、マスターも横文字ですよと言うと、マスターは一瞬、う、と言葉に詰まった。

「…マスターってのは、もう日本語だろい」
「初耳です」

口数が多いわけじゃない。テンポがいいというわけでもないし、にこりと笑いもしない。きっと話はあまり得意ではないんだろうとも思う。でも穏やかなテノールはとても耳に馴染んで、ささくれ立った心のとげとげがほわりと溶けていくような気がした。

「あの日、振られたんです」

気付けば話していた。どれだけ好きだったか、どれだけ傷ついて、何度枕を濡らしたか。他人の愚痴、まして恋愛の愚痴なんて決して聞けたもんじゃないだろうけど、マスターはただ黙って聞いてくれた。

「辛いねい」

話が途切れた隙間に、マスターがぽつりと呟いた。
辛かったな、ではなく、辛いとマスターは目を伏せてそう言った。まるで自分のことのように、悲しそうなやるせない顔をしてたった一言くれたその言葉に、私は馬鹿みたいに何度も頷いて、泣いた。
カフェオレはちょっと苦くて、暖かかった。


【口数の少ない貴方の言葉に、私はどれだけ救われただろう】




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