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週末の午後。
街には色とりどりの傘が咲いていて、私はその間をすり抜けるように早足で歩いた。服もかばんもびしょ濡れだ。ここ最近天気予報の“予報”に薄々疑問を感じてはいたけど、それでも今朝テレビが言った本日晴天という言葉を信じたのだ、私は。その結果がこの有様だなんてひどいじゃないか。

ほんの数分前に見た光景が頭に浮かんで、顔を顰める。綺麗な女の人が嬉しそうに手を伸ばしてじゃれついた背中は非常によく知ったものだった。それもその筈、その大きな背中の持ち主は私の彼氏、だった筈だ。少なくとも私はそう思っていた。

「他人は信じるなってこと?」

ひどいなぁ
呟いた言葉は思ったより元気でハリがあった。大してショックでもなかったし、胸が張り裂けるような痛みなんてのもない。つまりきっとそれって、そんなに好きじゃなかったってことなんだろう。ただ心に穴が空いたようにスースーして、何を見ても楽しいと思えないだけだ。大したことじゃない。平気、ヘイキ。

雨音が一層大きくなった。目を細めないと顔さえ上げられない。
空を見上げると、不意に楽しくなった。突然、無性に、すべてが可笑しく感じて、あはははなんて笑いたくなる。おしゃれにディスプレイされたショーウインドウも、美味しそうな匂いのするパン屋さんも、小さな傘に肩を寄せ合っているカップルも、何を見ても笑えてきた。転がった箸を見て笑うようなお年頃でもないけど、今なら転がらないただの箸でも笑えるような気がする。もし箸が何故か一本しかないとかだったら大爆笑してしまいそうだ。あー可笑しい。

「本日は晴天ナリー」

空を仰いで一人でプククと笑った。顔に当たる雨が心地いい。すれ違ったおじさんが怪訝な顔をして振り返った。

今日は待ちに待った週末だったのに。残業続きの一週間が漸く終わって、明日は彼氏とデートの約束もしていた。とても久しぶりに会えるから、私はすごく嬉しかったんだ。
だから今日は服を買うつもりで街に出た。少しでも可愛い自分で会いたかったから。明日の予行練習ってわけじゃないけど、今日はいつもよりおしゃれをした。髪だって時間をかけてセットしたし、このバックだっていい味を出したキャメル色のレザーがお気に入り。
で、カレシがウワキで、びしょ濡れだ。これを笑わず何を笑えというのか。

えいっ
大きな水たまりをぱしゃんと踏んだ。
ピンヒールが大きな水紋を描いて、弾けた。弾けた水滴は右斜め前に元気良く跳んで、誰かのズボンに茶色い跡をつけた。

「…あ」
「ご、ごめんなさい!私あの、すみませんでした」

慌てて頭を下げる。
視線の先の黒いズボンはシンプルだけど高そうないい生地で、返事は返ってこなかった。
恐る恐る顔を上げると、眠そうな目をしてどことなく色気を漂わせた男が非常に無愛想な顔で此方を見下ろしていた。その瞳はとても綺麗な藍だった。

「そこ、邪魔だよい」
「え?」

何がですか?という意味を込めて首を傾げると、男は無言で真隣にある扉に目を遣って、私の全身を眺めて、また扉に視線を向けた。私も釣られて同じように扉を見て、男の全身を眺めた。おや?少し上を向いて筆記体で書かれた英語を確認した。結果、ここがカフェの前で、男の服装がソムリエっぽい何かだということを理解した。

「あぁ、なるほど」

どうやら私はカフェの扉のどまん前で、水たまり遊びをしてしまったらしい。お恥ずかしい限りだ。
ズボンを濡らしてしまったことを再度謝ったけど、男が寄越したのは「いや」というたった一言。人と話すのは好きではないらしい。或いは私を不審者だと判断したのかもしれない。ありえないと言い切れないところが辛い。なによりこの沈黙は地味に堪えるし、素っ気ない男の言葉に少し腹も立ったりして。
なんだかささくれてるな。頭の片隅で思った。私、今ささくれでトゲトゲだ。お腹の辺りがズクズクも苛立つけど、完全に逆切れだってことくらいは分かる。失礼なことを口にしてしまう前に立ち去ったほうがいい。

「あの、すみませんでした。えっと…では失礼します」
「…」

男が一瞬、ほんの少し驚いた顔をして、私はそれに驚いた。先ほどから終始一貫して面倒くさそうで無愛想な顔を崩さなかったから、表情が少し動いたというだけで、私はびっくりした。これがこの男の意外な一面と言い切れる程知ってる筈はないんだけど。
ほんの少し興味を持った。レンアイというわけではない。ただ、単に好奇心が湧いたのだ。だから、尋ねた。本当ならこのまま「ではこれで」と帰ってもよかったんだけど。あぁ私やっぱり今、変かもしれない。頭の中で綺麗な人とカレシが見つめ合って、幸せそうに微笑んだ。

「…なんですか?」
「雨、当分止まねぇよい」

「あぁ、はい。でももうこんなだし平気です」
「…」

こんなん、と両手を広げて自分の姿を見下ろしてみる。お気に入りのネイビーのコートは水を含んで重たかったし、そもそもこれはもう紺じゃなくて黒だ。
男が首に大きな手のひらを添えて、ため息を吐いた。呆れられても困る。

「入れ」
「や、いいですよ。店の中びしょ濡れになっちゃうし」

本心だった。
顎をしゃくって入れと促されたカフェは、窓の外から見ただけでも素敵だった。アンティーク調でオレンジの灯りが暖かい店内は老舗の貫禄というか重厚な雰囲気で、とてもびしょ濡れの小娘がおいそれと入っていい空間とは思えない。なによりその雰囲気が壊れてしまうような気がして、私はそれはどうしてもイヤだった。

「…それに私行かなきゃいけないところがあって、」

静かに私を見ていた男は、ひょいと器用に片眉をあげた。たぶん嘘だと気づいたんだろう。でも男は何も言わなかった。無言のまま扉の横にある傘立てから傘を抜き取って、ん、と差し出す。黒い男物の傘だ。あまりに自然に渡されたもんだから思わず受け取ってしまった。貸してくれるつもりなのだと気付くまで数秒掛かった。
はっとして慌てて言う。

「いらないですよ、大丈夫です。今更傘なんて意味ない、し、…」

傘、と言いながら視線を手元に落したら、頭にぽんという弾力。

え、

言葉が途切れた。頭に手を置かれたのだと気付くのに、数秒とまた数秒かかった。
ぽかんとしたまま見上げると、目が合った。

「…風邪、」

男が微笑んだ。
ほんの少し目を細めただけなのに、その笑顔はとてもとても優しくて暖かかった。

「、ひくなよい」

男が消えた扉を見つめた。
暫く動けなかった。
赤の他人の優しさがじんわりと心に染み渡って、あぁ私は酷く傷ついていたんだと漸くその感情を受け留めた。

「…ひかないよ」

だって、こんなに胸があったかい。
上を見上げて、おしゃれな筆記体をゆっくりと読んだ。

「珈琲喫茶 モビーディック」



【貴方と私が出会った場所】
ゆっくりと口にしたのは、大切な大切ななにかを貰った気がしたから。




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