柔らかな口


『君と出会うために生まれてきたみたいだ』

街ですれ違ったカップルの男が、彼女の腰を抱き寄せながらそういっているのを聞いたことがある。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいべたべたと体を寄せ付けあい、照れる彼女に対して男は気障ったらしい言葉を投げかけていた。

幼い頃は理解できなかった言葉も、今ならわかる。

僕はナマエに出会うために生まれてきたんだ。


ナマエには足も、手も、おおよそ人が持っているものがない。きっとナマエを見た人たちは口を揃えてこう言う。『彼女にはなにもない』と。
だがちがう、僕には、僕にだけはわかるんだ。
ナマエは美しく輝く瞳と引き換えに足を失ったのだと。きめ細かい真っ白な肌と引き換えに手を失ったんだと。そうして彼女の欠落を補うために生まれたのが僕。僕は彼女の半身で、彼女は僕にとって必要不可欠な存在。

ナマエはきれいだ。もちろん見た目だけじゃあない。中身だって、僕や、ディオや、父さんや、エレナなんかとはまるっきり違う。
彼女の心は透明なんだ。僕にはわかる。
外に焦がれる彼女の揺れた瞳を見つめる僕がどれほど胸を痛めているか、彼女は知っているのだろうか。いいや、彼女は知らないだろう。だって彼女は外がどんなに恐ろしいものか分かっていないから。
足がない彼女は凶暴な野犬から逃れることもできない。腕がない彼女はいじめっ子から伸ばされる手を振り払うこともできない。
不完全なナマエ。
だから僕がいる。僕と彼女二人だけの空間に、彼女を脅かす存在なんていない。平和で、甘くて、穏やかな時間が流れる優しい空間に、僕は彼女を匿っている。ナマエを脅かすなにもかもから。

「ねぇ、ジョナサン」

鈴を転がしたような透き通った声が僕の鼓膜を震わせる。それだけで僕の身体は歓喜に震える。身体中を渦巻く欲と、歓喜と、たくさんの思いをなんとか押さえつけ、僕は努めて平静を装った声を出す。「なんだい、ナマエ」、と。

「ジョナサン、わたし外が見たいわ」

彼女の視線はカーテンがひかれた窓に向けられている。目を細めながら。
僕はへにゃりと眉を下げながら、彼女を見る。彼女が僕を見ることはない。彼女は分かっていないんだ、外がどれほど彼女を傷つけるかを。

「だめだよナマエ、不完全な君が外に出られるわけないだろう?」

だから僕はいつもこう口にする。そうすれば彼女は口をきゅっと引き結んで、窓から視線を外すと知っているから。

「君は僕から離れちゃいけないんだよ」

こちらを伺う心細げなナマエに、僕はふんわり笑いかけた。



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