「ヒッ、」
伸ばされた巨人の大きな手から逃れるようにアンカーを木に飛ばし、なんとか回避する。心臓の音がうるさい。体が、手が、小刻みに震える。
状況は絶望的だった。
今日は朝から調子がよくなかった。コーヒーをこぼしたし、書類のミスで上司に叱られた。太陽は雲に隠れ、いやに寒い風が体にまとわりつくようだった。
なまえの勘はよくあたる。恋人であるリヴァイに言われた言葉がふと頭に浮かんだ。
なまえは引き攣る頬に無理やり笑みを浮かべる。
その通りだ、と思った。今日の壁外調査は最悪だった。予想外に多い巨人の数も、奇行種の多さも、まさに"最悪"だ。
このようなことはよくあることだ。調査兵団で自由の翼を背負って数年経ったが、"最悪"なんて何度も経験してきた。
風をきるような速さで再び伸びてきた巨人の手を避け、ボンベを勢いよくふかしながら巨人の後ろにまわる。目は巨人から離さない。にたにたした口が真っ赤な血を滴らせながらぱくぱくと動いていた。まるで獲物を貪ろうとしているかのように。
馴れない、と思った。こわい、とも。
何度も"最悪"を体験するたびに心がおかしくなるような恐怖を感じた。死んでしまいそうにこわいというのに、私は未だに死んでいない。いや、もう死んでいるのかも。巨人の手に体をつかまれ、口に放り込まれる。ぼきりと生々しい命が絶たれる音がする。もしかして今見ている地獄のような光景は走馬灯?生きていると思い込んでいたけれど、私が生きている根拠などどこにもない。
私は、ほんとうに生きているの?
木々を伝い巨人の真後ろにまわったなまえは力強く握られた刃を振り上げ、荒々しい雄たけびを上げながら項を削ぎ取った。ずんっと重いものが腕につたわる。それは命を奪った重さだった。仲間たちの仇を討った重さだった。
「ッハ、」
短い息を何度も、小刻みに吐き出した。休んでいる暇なんてない。なまえは木々を伝い、森の中を飛ぶ。あたりには巨人たちの地響きのような足音と、仲間たちの絶望に濡れた声が響いていた。命乞いをするこえ、悲鳴のようなこえ、世の中のすべての憎しみをこめたような、言葉にならないこえ。
「あ、あ、なまえ、」
ふと名前を呼ばれた気がしてそちらを向く。「あ」なまえは声をもらした。
巨人に下半身を貪られ虚ろな、それでいて未だにひかりを灯している瞳がたしかに自分のほうに向けられている。縋るような色を浮かべながら。
彼女は訓練兵時代からの友人だった。リヴァイと彼女と私とで、酒を酌み交わしたのはつい三日ほど前だったか。
なまえの頭の中にはつらつらと過去の思い出が浮かび上がっていた。彼女と視線が交わる最中、時が止まっているような感覚を覚えた。
彼女の顔は絶望に染めれていた。だらりと巨人の口から垂れ下がった上半身。彼女の口が微かに開く。
「あ、あっ、たすけ」
ごきりと音がなり、彼女の体が消えた。巨人の喉元がごくりと音をたてる。のまれたのだと理解した瞬間、とまっていた時間が動き出した。巨人の手が目の前に迫っていた。気づかなかった。頭には三日前、あの日の夜の出来事が頭に浮かぶ。まるで走馬灯のようだとぼんやり思った。酒に酔い、早々にダウンして机に臥せっていた彼女のいびきのうるささ。同じく酒を飲み進めていたリヴァイの頬は少しだけ赤く染まっていた。お酒が苦手な私はちびちびと飲むことしかできなくて、そんな私を見て彼が嗤う。いつもの無愛想な顔じゃなくて、少しやわらかな顔。「ガキかテメェは」と鼻でわらうリヴァイに、私はいつも肩をすくめるのだ。心地よい空間。
目の前に大きな手が迫る。体が砕けてしまうのではないかというほどの痛み。目の前に迫る真っ赤な唾液に濡れた大きな口内。
「なまえ…ッ!!」
名前を呼ばれた気がした。
走馬灯はまだ終わらない。
∞
「あ、」
瞼の裏にぼんやりとした光を感じ、なまえはゆるりと瞳を開いた。開けられたカーテンから室内に光がはいっている。体がひどく重い。
またか、と思った。私はまた帰ってきたのだ。残酷なまでに心地よい空間に。地獄に赴くまでの借家に過ぎないこの場所に。
「…起きたか」
「…リヴァイ、」
視線を左――窓とは反対方向――に向ける。いつものぶっちょう面をした彼がこちらを見下げていた。
「私は何日寝ていたの?」
「愛しの恋人を見て、開口一番にそれか」
表情を変えずそんなことを言う彼に、自然と笑みが漏れた。恋人だなんて、らしくない。それを見たリヴァイの眉がぴくりと動く。気に障ったのかもしれない。
「…五日だ」
「そう」
暫し沈黙が部屋を支配した。
「私、今回も救えなかった。今回で記念すべき50回目だ」
「……」
つとめて明るい声を出す。口から出て私の耳に届いたその言葉は、自嘲じみて聞こえたけれど。
「あーあ、また救えなかったなぁ」
重たい腕を持ち上げて、天井にむけて手を伸ばす。死んで、目覚めてから思い出すのだ。彼女が死ぬ運命であることも、私がそれを救おうとしていることも、もう存在しない片腕のことも。
「リヴァイは私が夢を見てるというけれど、私はきっとこれは神様が与えてくれたチャンスだと思うんだ」
何度も巡って、その度に絶望を味わって、最後に胸を引き裂かれるような声を聞く。私は一回目を廻り続けている。彼女を助けられなかった日を、腕と共に自由の翼を失った日を、リヴァイの腕に救われた日を。ずっとずっと廻っている。
「ねぇリヴァイ」
「…なんだ」
私を見下ろす表情は悲しくて、痛々しげで、それでいて心底愛おしい。
私は目を細める。まるで眩しいものでも見るかのように。自由と翼を持ち、過去に、地獄に縛られず空を飛び回る彼を見る。
「いつになったら終わるんだろうね」
過去に囚われ続ける私に、もはや存在価値などないのかもしれない。
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