ソファに腰かけ、瓶の中に浮かぶ二対の深紅の瞳を見つめる。ルビーやレッドスピネルなんて安っぽいものとは比べ物にならない、世界最高峰の赤。とろみのある液体に満たされた瓶の中に手を差し入れ、眼球を一つ手に取る。瞳孔が開ききったそれは、今なおこの世界を見つめているみたいだ。
怒りに満たされたそれから、涙がぽたりと床に落ちた。ぺろり、眼球を舐める。想像していた塩気なんてもちろんなくて、ただ保存液の薬品臭いにおいがした。
「お前もよっぽどだな」
「…なにが?」
ぺろりと眼球を舐める私に、隣に座っていたクロロは浅く笑いながら言った。彼の言葉の真意を分かっていながらとぼける私と、そんな私を見つめる漆黒の瞳。よっぽどだ、なんて失礼な言葉だ。"よっぽど"の限度を超えてしまっている奴にだけは言われたくない。
まるで珍しい虫を観察する子どものような目線には気づかないふりをする。
眼球を持った手とは反対の手で左目に被せた眼帯をずらし、慣れた動作で義眼をはずす。少し湿ったそれはけれど本物の目玉とは程遠くて、それならよほど赤い目の方が生きている気がした。おもちゃみたいなピカピカの義眼を瓶の液の中に沈める。寒々しくぽっかり空いた穴を埋めるように、未だ涙を流す赤い瞳を押し込んだ。
途端に頭に浮かぶ景色。鼻を擽る鉄臭さ。響く怒声。誰かの泣き声。
"私"はなにかを抱えて必死に走っていた。手の中の存在は本当に安心したようにすやすやと眠っていて、こんな状況なのによく眠れるなぁ、なんて他人事のように思う。"私"はそれを全ての物から守るみたいに両腕で抱きかかえて、無我夢中で逃げる。荒々しい息と服に染みる鮮血から、もう"私"の命は長くないことを知る。抱いたものを包んでいる布には血がべったりと付着していた。ないはずの腹の傷が痛むような錯覚に陥る。
けれど"私"は心底安心していた。この子だけは、この子だけは。震える音で、しかし力強く紡がれる声。
頭の中をじっくり視るためにぼうっと宙を見つめていると、トンッと肩を押されソファに押し倒された。今まで鮮明に見えていたビジョンが途端に不明瞭となる。なに、思わず低い声が出る。
未だ浅く笑んだクロロは、私の赤い目を親指で撫ぜた。
「過去なんかより今を楽しんだ方がよっぽど生産的だと思わないか?」
「クロロの言う生産的な行為によって生まれるものなんてなにもないけどね」
0.03mmの壁が私たちを隔てている限り、もしくは私が殺人薬を飲み続ける限り、これから行われる行為に生産性なんてうまれない。
赤と黒、二つの目を通しながら見る世界は曖昧だ。頭の中と目の前とに二つの世界が同時に存在する。クロロは私の首元に顔を寄せながら、慣れた手つきでシャツのボタンをはずしていく。頭の中では"私"が必死に逃げ惑う。どちらが現実かなんて分かりきっているけれど、薄っぺらい現実なんかよりよほど頭の中の光景の方が現実味がある気がした。
風に攫われ、長い金髪が宙を舞う。青々とした木々と、それらを控えめに彩る黄色の花。頭上に広がる空は絵の具を混ぜ込んだかのように真っ青で、抱いた彼はすやすや眠る。"私"は走る。今、全身で感じる美しいものたちを腕の中の存在に託すために。聖書でよく目にする自己犠牲なんていう文字に表せるものじゃなくて、この感情は、そう、母親だけのもの。仰々しいことが書かれた紙の束には決して収まりきらないなにかが"私"を突き動かす。
身体中ぼろぼろだというのに、"私"はなぜだかわらっていた。すやすや眠る腕の中の存在を見つめながら、穏やかにわらっていた。
「そんなにそっちの世界がいいなら、おくってやらないこともないぞ?」
湿った吐息、浅い笑みと、無感動な瞳。
薄く口端を持ち上げたクロロは、長くしなやかな指で私の腹、臍の下をするすると撫でる。左胸に舌を這わせながら、此方を覗き込む真黒な目。浮かべられた笑みはそれこそ"私"が浮かべるものより整っているはずなのに、決定的になにかが違っていた。
「…あなたを愛した時はそうしてもらう」
冷ややかに呟いた言葉に、クロロは満足げに笑った。私が彼によってもう一つの世界におくられることは、きっと死ぬまでないだろう。
私が"私"になることも、たぶん、一生。
「ねぇクロロ」
なんとなく宙を見つめていると、ふと疑問が頭に浮かび、思わず口を開く。しかしその呼びかけに彼が反応する前に、私は小さく頭を振った。
「…いや、なんでもない」
聞いたところで覚えていないのがオチだ。彼は自ら手放したコレクションなんかに興味はない。
身体を這う熱い体温を感じながら、ゆるりと目を閉じる。瞼の裏側、黒に包まれた世界のさらに奥、そこには私だけの世界がある。
その世界の終わりは幾分呆気ない。ぶちりと途切れる様は、まるでテレビ番組の終了みたい。
「あくしゅみ」
最後に見たのは漆黒の瞳。
手に抱いた赤子はあの後どうなったのだろう。