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「いやな顔をしたい気持ちもわからなくはないが、久しぶりの再会だろう?挨拶くらいさせてくれ」

クロロが急に家を訪ねてきて飄々とした笑みを浮かべた顔を見た瞬間、私は心底いやな気持ちになった。忘れ去りたい思い出話を持ちかけられた時のような、心にどろっとしたものが沈殿していくかのような。

「なんの用?」

飼い猫のジジは招かれざる訪問客なんて知らぬとばかりに暢気にソファに寝転んでいる。大きなガラス窓から降り注ぐ太陽が差し込む午後は、彼にとっては絶好のお昼寝日和だろう。部屋の中はキャンパスやら絵の具やらがそこかしこにあり、独特の匂いが満ちている。さっきまで私を落ち着けてくれていたそれらが、彼が一歩玄関に入り込むなり調和を崩し私から遠ざかっていく。
それはクロロが発する、すべてを自分のペースに持っていく雰囲気が部屋に入り込んだからだった。

「近くに寄ったから来てみたんだ。もうすぐここを引っ越すと聞いて、一度顔を見ておこうと思ってな」

クロロは言った。

「ケーキを買ってきたんだ。食べるだろう?」
「まさか、家に上がる気?」

私は眉を顰めた。
クロロと最後に会ったのはたしか大学を卒業して以来だから、四年も前だ。大学生の頃はよく互いの家を行き来した。彼が住んでいたのは、学生にしては大きいけれど、社会人になってはぼろいアパートで、しかし西日が心地よい部屋だった。十畳と四畳の部屋、おもちゃみたいちゃっちいお風呂、改装したのがまるわかりのピカピカのトイレ、コンロが二つつけられたキッチン。
私は床に座り、窓から差し込む西日をうけながら絵を描く彼をいつも見ていた。時にはコーヒーを淹れ、暇つぶしに近くの古びた書店に行き、彼の姿をデッサンしながら。よく彼の家に寝泊まりし、二人して寝坊して大学に遅れるなんてことしょっちゅうだった。すべてから切り離されたような、どこにでも繋がっているような私たちだけの空間にうっとりとしながら日々を過ごしていた。きらめく朝日も、穏やかな夕日も、静観な夜も、一つ一つが絵に描かなければと思わないでいられないほど美しかった。
クロロの気配を感じたとたん、私は今まで思い出さなかったものが色鮮やかに蘇ってくるのを心の深いところから敏感に感じ取り、それらをじっと見つめ、しみじみと彼の存在を感じた。彼が描くのをやめ、就職活動に専念しはじめた時から、この記憶は薄れ始めていた。

「水臭いこと言うなよ。久しぶりにジジにも会いたい」

彼が手に持った白くて四角い箱から甘い匂いがする。

「…数年ぶりだもの、貴方のことなんてきっと忘れてるんじゃない?」
「はは、ジジは賢い子だからな。覚えているさ」

玄関で靴を脱いだクロロを、阻むことなく部屋に入れる。
ここに越して来てからは一度も部屋に入ったことがないはずなのに、まるで隅々まで知り尽くしているかのようにリビングに上がりこむクロロの背中を見つめる。不思議な感じだった。つい昨日までこの部屋で一緒に過ごしていたと錯覚してしまいそうなほど。

「ほら、ケーキ。俺はいらないから好きなのを食べてくれ」
「ありがとう」

ケーキの入った箱を受け取り、キッチンに向かう。

「やはり賢いな、お前は」

リビングから声が聞こえる。ジジの甘えるようなごろごろとした声。
クロロは嬉しそうに言った。自分の子どもを褒めるかのような、親愛の情の篭った声だった。
ジジの鳴き声、クロロの発する独特な雰囲気、絵の具の少し油くさい匂い。そのすべてを感じて、私の胸から愛しさが込み上げてきた。心の奥底にしまった埃を被ったアルバムを久しぶりにあけたかのような、ほっこりとした感覚。
未来だけを見て、過去に縛られず過ごすことは大切なことだ。でも、過去を思い出して幸福な心地に浸れることは、なによりすばらしいことだと思う。
私は今まで音信不通だったクロロを恨んでいたし薄情な奴だと憤っていたけど、嫌いにはなれなかった。あの頃に感じていたおままごとのような、けれど真剣だった恋心を大切に隠し持っていたのだ。あの頃の私たちは一卵性の双子のようだったと思う。なにも言わなくても、お互いのことならなんでも分かり合えた。今思えば、それは愛情というより親愛だったのかもしれない。
あの頃の私たちをクロロがどんなふうに思っているのかは知らないけれど、きっと今もその親愛の情はなくなっていないと思う。私がそう感じているように。
四角い箱の中にはチョコケーキと苺タルトが入っていて、なんだか笑えてしまった。クロロはいらないと言っていたけれど、ちゃっかり自分の好きなケーキを買っているのだから変わらないなぁ、と思った。あのアパートに行き来していた時も、よくケーキを買ってきては二人して食べた。私は苺タルトで、彼はチョコケーキ。
二つのコーヒーとケーキをお盆に載せる。リビングではジジが心地よさそうにごろごろと鳴いていた。

「おまたせ」
「あぁ、ありがとう」

ソファに座ったクロロが言った。私も向かいのソファに座る。

「そう言えば、クロロは今なにをしてるの?ずっと音沙汰もなく」

最後の方は拗ねたような声色になってしまった。
それに対しては悪いと思っているところがあるのか、クロロはバツが悪そうにしていた。私はその反応に少し驚いた。
昔なら、飄々とした人を化かすような態度で、私の問い詰めるような言葉をさらりとかわしていたのに。申し訳なさそうに頬を掻く彼は、見た目こそ昔と変わらなくても、やはりこの四年間の間に変わってしまったのだ。私もそうであるように。人はずっと立ち止まったままでいることはできないんだ、そう思った。
自分自身では変わったつもりはなくても、生きていれば少なからず変化してしまう。それは寂しく思うことじゃなくて、当然のことだと思えばすんなりその変化を受け入れられた。

「今は小説を書いて生計を立てているんだ。と言っても、そこまで有名なものじゃなくて、いくつかの雑誌の小さな記事を任せてもらったり、細々としてるよ」
「クロロはてっきり画家になるものかと思ってた。あんなに素敵な絵を描いていたのに」

海のように深いあおで彩られたキャンパス。私たちはあおい絵がすきだった。空のあおと海のあおは違う、彼はよくそう言った。私たちが「あお」と呼んでいるものは、けれど一つ一つ違うあおでできている。彼はそれに魅せられていた。あの頃、ずっと身近にあったその色を今は見られないと思うと少し寂しいけれど、きっと彼は文字としてその色を表現する術を得たのだろう。自身をさらけ出すことをおそれていた彼が、今は自分自身を言葉にする職に就いている。私たちは流れる時の中で少しずつ成長しているのだと改めて感じた。久しぶりに顔を合わせた彼も、私の変化を感じて感慨深く思っているのだろうか。そうだといいな、と思う。彼だけ変わって私がそのままだなんて、なんだか放っていかれたようで悲しいから。私たちの関係はどこまでも対等なものでいたいのだ。

「いつ引っ越すんだ?」
「来週の火曜日」
「その三日後はお前の誕生日だな」
「おぼえてるの?」

当たり前のように言う彼に驚いたと同時に、あぁ、やっぱりと泣き出したい気持ちになった。彼の誕生日の日がくるたびにあのアパートでの日々を思い出すのは私だけじゃなかった。きっと彼も数日後に訪れる私の誕生日の日は、心の何処かにあの頃の記憶が蘇っていたのだと思う。いいや、違う。蘇るのではない。あの日々は私たちの心の根底だ。忘れたくても忘れられない、大切な記憶。
胸に溢れてくる感情を必死に押し殺す。私たちの関係は昔のようなものではない。そうあってはならない。ジジがにゃあと泣いた。泣き出したい私の心を代弁するかのように。思わず想いを吐露してしまいそうな唇をぎゅうっと噛みしめ、私は自身の手のひらに視線を落とした。

「きれいな指輪だな」
「…でしょ?どんな時でも外さないって決めてるの」

私の薬指にはシンプルなシルバーの指輪がはめられている。数年前にはなかったそれは、つい先月貰ったものだった。受け取った時からそれを外したことはない。彼への愛の証であり、過去への枷から逃れるものでもある。指輪を撫でながら、胸に燻るたまらないほどの想いを過去の思い出へと離別する。突き動かされるような衝動に身を任せていいのは幼いころだけ。現在の人を裏切り過去に縋る勇気も残酷さも、今の私には持ち合わせていない。

「ペットも可なマンションを二人で選んだの。彼も猫が好きだから。人見知りなジジも彼には懐いたのよ?彼、動物に好かれやすいんだって」

努めて明るく振る舞う私の心情を彼に悟られてはいけない。彼はなにか眩しいものでも見るかのように目を細め私を見つめる。ゆるりと弧を描く唇。

「幸せか?」

彼は問う。
一拍の間、私は確固たる意志を持って彼を見つめた。きっと私の唇も緩やかな弧を描いているのだろう。
私たちはどちらともなくコーヒーに口をつけた。言葉を発することはない。心の中は不思議なほど穏やかだった。日の光に照らされた部屋、漂うコーヒーの香り、ジジが小さく伸びをする。頭に浮かぶ小さなアパートの一室が現実味を帯びてこの空間へと切り替わっていく。
やすらかな空間がただ広がっていた。



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