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 目の前に広がる光景を形容する言葉を彼女は持っていなかった。否、彼女の頭の中には文字の羅列などなく、ただ目の前の光景が彼女の脳内を真白に染め上げていた。
 藍色と珊瑚色をした美しい空がそこにはあった。今まで見たこともないその色が彼女の真黒に透き通った瞳を染め上げる。
 夜が近づく音がする。珊瑚色の空はもう暫くすれば成を潜め、藍色の中に呑み込まれていくのだろう。

「きれい、」

 彼女のぱさぱさと乾燥した唇は無意識に上下していた。この美しい光景を表す言葉を彼女は持っていなかったが、口から零れ出た言葉こそが今見ている光景に一番相応しい言葉だと思った。
 今まで見てきた薄汚れた世界全てを忘れさせてしまうような光景。楽園と呼ぶに相応しい処。
 あたりを見回すとそこは不思議な場所だった。ぽつりぽつりと遠くの方に建物が見えるが人の気配は一切ない。まるでこの世に自分一人しかいないかのような感覚に陥らせる。
 しかし彼女の心は穏やかだった。未だ嘗て感じたことのない安らかな安心感が胸を満たす。
 人はいないがそこかしこから生命の音を感じる。見渡す限りに広がった草原は青々と天に向かって茂っている。まるで若草色の海の中を漂っているようだ。空は美しい色を残したままその姿を保っている。きらきらと輝く数多の星はパレットに取り分けられた絵の具のように様々な色をしている。
 大地を駆けるように流れる風が彼女の髪をふわりとかきあげた。風によって広がるスカートの裾が空の色を映して珊瑚色に変わる。彼女が記憶する薄汚れたスカートなどどこにもなかった。
 スカートが風に舞うことで彼女の白すぎる脚が姿を現す。いくつもの痣を纏ったその脚を労わるように草木は彼女の脚をさわさわと撫でさすった。

「なまえさん」
「、金木くん…?」

 背後を振り返るとそこには見慣れた彼がいた。
 草木が意思を持ったように激しくその身を揺るがせる。風が彼女を守るように吹きすさぶ。
 彼の赤い瞳が彼女を淡々と見つめていた。その瞳に映るものが知りたくて、彼女は彼の瞳を覗き込もうと目を凝らす。しかしそれを辞めるように風が彼女の髪を舞い上がらせ目を覆った。

「あ、」

 今まで彼女を愛おしむためだけにそこにあったものたちが彼を拒絶しているのを感じた。しかし彼はそれを意識していないかのように平然と緑の海面に佇んでいる。
 彼はどうしてここにいるのだろう?
 彼女の心の中にはそんな疑問が浮かんでいた。彼がここにいるのはおかしい気がした。

「金木くんはどうしてここへ?」

 彼はここにいるべき存在じゃない。この世界がそう言っている。
 彼女は物言わぬ彼を見つめ問うた。
 彼の表情は先程からなんら変化していないというのに、彼女がその赤い瞳を覗き込むたびに物悲しそうな色を浮かべている気がして、彼女まで悲しい気持ちになった。
 彼の孤独に濡れた瞳にどうか珊瑚色を映して、と空に乞う。そうすれば彼もきっとその美しさに呑まれ哀しみなど忘れてしまうだろうから。どうか彼方まで生い茂る緑の草たちをその身に感じてほしい。きっと生きる喜びを感じられるだろうから。
 しかし彼の瞳が映すのは美しい空でも、生命の息吹を感じられる植物たちでもなく、薄汚れた私だけ。この世界はこんなにも輝きと幸福で溢れているというのに、彼はそれを見ようとはしない。
 汚れきってしまった私はどうしてもこの世界には不釣り合いだ。しかし私に戻れる世界などない。血で縁どられた歪んだ世界から解放され此処に来たのだから。彼に喰らわれた私は彼の一部となってこの世界に存在する。しかしだからこそ彼はここに来るべきではないのだ。
 死の世界にいていいのはその命を終わらせた者だけ。

「金木く、」

 続く言葉は風に攫われ消えていった。彼女を抱きしめる温かいぬくもり。先程まで感じていたような安らかな安心感と一抹の焦燥感が彼女の胸を焦がす。きっとこれは彼の心だ。この世界が彼の心自身なのだ。勿論この世界に存在する私含め。
 彼は言葉なく懺悔している。私を喰らったことを、今の今まで、ずっと。

「ごめん」
「……」
「ごめん、」

 空からしとしとと雨が降る。それは珊瑚色の雨だった。まるで桜の花弁が散っているようだと思った。幸福と誕生の象徴である春が、彼の流す涙とともに朽ち果てる音が聞こえる。
 この世界に季節はない。巡るものなどなにもない。しかし彼の心が死に絶えるたびに様々なものが朽ちてゆく。この世界は彼の心だ。私が感じる幸福も安らぎも、すべて彼が持ち得るやさしさでできている。
 だからこそ私はこの世界を、金木くんを守りたい。

「私はずっとここにいるから」
「、」
「一人じゃない、から」

 彼は許しを乞うてなどいない。私に求めているのはそんなものではない。だから私は底のない悲しみに身を打ち震わす彼をただ抱きしめるのだ。このやさしい世界が朽ち果ててしまわぬように。
 彼が掲げるその使命を全うできるのか、これから彼がどのような未来を進んでいくのかなど私にはわからない。しかし彼は自身の大切なものを守るためにこれから様々な困難にぶつかり声なく泣き叫ぶのだろう。そうしてそのたびにこの世界から春は朽ちていく。
 なにもできない無力な私は、せめてこの世界で彼を見守り続ける。彼がいずれこのやさしく温かい世界に足をつけるその瞬間を待ちわびながら。

「だから、それまではさよならしないといけないんだよ」

 彼の肩をそうっと押す。血に濡れた世界で未だ戦い続ける彼に、別れの言葉を告げるのだ。

「海が死ぬ日に迎えにゆくよ」




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