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「シンジくん」

カーテンがしかれた薄暗い部屋の中は、ひんやりと冷たい空気が満ちていた。外からはしとしとと雨の音が聞こえる。

「シンジくん」

もう一度、口にする。囁きかけるように。
ベッドに盛り上がった布団がごそごそと動き、隙間から出された腕がゆるやかに手招きをする。わたしはすこし躊躇った。

「シンジく、」
「きて」

淡々とした声。けれどわたしの躊躇いを打ち砕くには十分だった。
開いていた扉がぱたん、と閉じる。薄暗い部屋の中に足を踏み入れたわたしは、吸い寄せられるように彼の元に歩み寄っていく。簡素すぎる部屋には、勉強机とベッドくらいしかない。彼がここへ引き取られた時から数年たったこの部屋は、しかしいつまでたっても生活の匂いがしなかった。今日に至るまで、ずっと。

ベッドの脇に立ち、盛り上がったままの布団を見下ろす。毛布一枚じゃ寒いだろうに、彼は数年前からずっと冬になるとそれだけを使い続けている。文句もなにも言わずに。
怠惰な動きで布団から顔を出した彼に用件を伝えようともう一度口を開きかけたわたしは、突然伸びてきた腕によってベッドへと引きずり込まれる。彼の匂いが肺を満たす。縋りつくように、彼がわたしを抱きよせる。寒々しいこの空間で、そこだけが確かな温もりをもっていた。

「あ、の」
「黙って」

静かな声だった。幼い頃から聞き続けていた、無感動な声。
彼は感情を表そうとしなかった。この家に越してくる前から。きっと彼の心は疲れ果ててしまったんだと思う。両親と離れ、大人たちの隠しもしない冷ややかな視線に晒され、親戚の家をたらい回しにされた彼がこの家にたどり着くまでに、彼の心は凍りきってしまったのだ。
溶かしてあげたいと思った。彼の深く沈んだ沼のような瞳を見たとき。傲慢にもわたしは、彼を救ってやりたいと思ってしまった。それがどれほど身の程知らずで、叶わない願いかも知らずに。

「明日の用意、しろだって」
「黙ってって言ってるじゃん」
「後で母屋に来いって」
「…うるさい」

語り続けるわたしを咎めるように、抱きしめる力が強くなる。わたしの首に顔を埋めたシンジくんが喋るたびに、息があたってこそばゆい。シンジくんの体温が、わたしの体を熱くする。
「シンジくん」わたしは呟く。彼の心に刻み付けるように、ゆるやかに。

明日になれば彼はこの家からいなくなる。
父の元に行く、薄暗い部屋の中、彼と私の呼吸だけが部屋を支配するある日の夜、彼は独り言を言うかのようにそうわたしに告げたのだ。自分の居場所は此処ではない、そう言われたように感じた。いつかこの日が来ることを、シンジくんも私も薄々感じていたのかもしれない。いつか別つ時が来ることを知りながらも、しかし私たちは互いの寂しさを埋めるかのように寄り添いあった。
シンジくんはなにも言わない。ただただなにかに縋るようにわたしの体を抱き締める。わたしはそれを受け入れる。彼の中の孤独が少しでも薄れるようにと願いながら。

「どうしてわたしたちは子どもなんだろう」

なにもできない、だたの子ども。一人で立つことも、彼を闇から救うことも、なにもかも叶わない。耳元で彼の息遣いが聞こえる。ゆるやかに動きを刻む心臓の音。背中に回された腕が愛おしくて、それ以上に哀しかった。どうしてわたしたちは無力なんだろう、想いは言葉になって空気を振るわせる。

「シンジくん、」
「…なに、」

彼の声が耳に届く。静かな声だった。雨の音、湿った空気、ゆるやかに動く心臓の鼓動、二人の呼吸音、あたたかい温もり。
そのすべてを心に刻み付ける。忘れないように、心の奥底にしまう。
願わくば、これからの未来で彼の心を軽くできる存在が現れますように。わたしにはできなかったけれど、彼は幸せになるべきだと思うから。

「わたしのこと、忘れないでね」

貴方の幸せを祈る存在がいたことをどうか忘れないでほしい。途方もない孤独に襲われ、心の中で涙を流す貴方を想い続けた女がいることを。

小さな嗚咽が聞こえる。それが彼のものだったのか、わたしのものだったのかはわからない。しとしとと降り続く雨が、わたしたちの代わりに泣いているのだと思った。

きっとわたしが彼を呼びにこの部屋に来るのも、明日の朝で最後なのだろう。低血圧の彼はきっとなかなか起きてくれない。だから朝食を食べ終わって彼が目を覚ました後、わたしは言うのだ、『しあわせになってね』と。そう言葉に出すことしか、わたしにはできないから。
シンジくんの体温を、静かな声を、抱きしめる力の強さを、不安定に揺れる瞳をわたしは決して忘れはしない。

あの日幼さは弱さだった。



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