きっとなまえは二人いるんだッ!と、酒臭い口でサッチは言った。勢いよく飛んできた唾にエースは顔を顰める。
他の隊員たちは飲めよ歌えよのどんちゃん騒ぎで、サッチの叫びを聞いている者はほとんどいない。
男たちの声が奏でる騒音の中で、一際大きな声でサッチはがなり立てた。
「絶対奴は二人いる!もしくは二重人格だ!」
「陸に停まるたびに言ってねぇか、それ?」
「うそじゃあねぇぞ!俺は見たんだ!男の腕にしな垂れかかるあいつをよお!今回は髭生やしたおやじだったぞ!」
「サッチの目は節穴か?見てみろよ、あの姿」
ジョッキを片手に呆れた目をしたエースは、くいっと顎で少し離れた場所を指す。
その方向を見たサッチはうぐっ、と言葉を詰まらせた。
渦中の人物たるなまえは、酒が並々と入ったジョッキを左右二つに持ち、周りからのコールに応えるように豪快に飲んでいた。胡坐をかきながら仲間たちと大口を開けて笑っている。
いつもと変わらないなまえの姿に、エースは胡坐の上に頬杖をつきながらサッチを見た。
「あれが男の腕にしな垂れかかるなんてありえてたまるか。男より男らしくが座右の銘だって豪語してる奴だぞ?」
「だ、だけどよぉ」
いつも通りのなまえを見たせいか、サッチの声が自信気なく呟かれる。それに畳みかけるようにエースは身を乗り出した。
「そ・れ・に!なまえは今日は街に降りてないはずだぜ。船内でなんかしなきゃいけないって言ってたしな」
「なんかってなんだよ!」
「さぁ?なんかはなんかだろ」
エースはぐいっと酒を煽った。酔いが回ってきたのか、頬が赤みを帯びている。
「そんなことより明日は一緒に旨い飯食べに行こうぜ!俺肉喰いてぇ肉!」
「なっ、話はまだ、」
「いーからいーから、サッチも飲めって!」
持っていたジョッキを無理矢理口に押し付けられ、続く言葉は酒によって阻まれた。
そんな隊長たちの姿に周りにいた隊員たちがはやし立て、何杯ものジョッキがサッチの元に運ばれてくる。
いけぇサッチ隊長、飲んじまえェ!
いいぞいいぞ、さっすが隊長だぜ!
周りから上がる爆音にも似た大きな歓声に気を良くし、サッチは大口を開けながらがばがばと酒を飲んでいく。
楽し気な声を聞きつけたなまえも輪に加わり、やんややんやと男たちの声が甲板に響き渡る。
「おーい!酒が足りねぇぞお!!」
ドンッと空のジョッキを床に置き、サッチは周りに自慢するかのように大きな声で叫んだ。溢れるようなジョッキと、空になった酒樽が転がっている。
「おいなまえ、お前酒取ってきやがれ!」
「えぇー!なんで私ィ?!」
「元はと言えばお前が悪ィんだよ!」
「意味わかんねーっすよ!」
突然自身に降りかかる理不尽になまえはきゃんきゃんと吠える。そんななまえの態度に青筋を立てたサッチは風をきる勢いで拳を振り上げた。
「さっさと取ってきやがれ!」
「いってぇ!!」
脳天を直撃した拳骨になまえは悲鳴のような声を漏らす。コントのような二人のやりとりにドッと周りが沸いた。当の本人は頭を抑えながらぷるぷと震えしゃがみこんでいる。
女であるなまえに拳骨を落としたサッチを責める者は誰もいなかった。この船の隊員たちは男も女も関係ない。皆が対等だからこそ、女のなまえもこうして拳骨を浴びることはしょっちゅうだった。
「これだからべろんべろんに酔っぱらったサッチ隊長は嫌なんだよぉ」
目尻に涙を溜めながら情けない声を出したなまえは、二撃目が来る前にそそくさとその場を離れた。誰も助けてくれないんだもんなぁ、と頭にできたたん瘤を撫でながらぶすくれる。
酒樽が置かれているのは甲板から少し離れた場所にある薄暗い倉庫だ。なんでわざわざ酒盛り場所から遠い場所に置くのかと以前訪ねたら、酒は直射日光に当てちゃいけねぇだろうが馬鹿、と殴られたことがあるなまえは、それ以降は甲板までの道のりを大きな酒樽を担いで渡っていた。
今頃隊員のほとんどが甲板に集まって酒盛りしているからか、先程の喧騒が嘘かのように廊下には人っ子一人いない。遠くから微かに隊員たちの笑い声が聞こえた。
倉庫の前に辿りついたなまえは大きな木の扉を開けた。
この船には多くの隊員が乗っているから、酒はすぐ消費される。そのため倉庫は大きく、中には大量の酒樽が所狭しと並べられている。
壁に掛けられたランプはもう電力が少ないのか、弱弱しい光が倉庫内を照らしていた。
「サッチ隊長のあの酔っぱらいようじゃ、あと一樽ってところでしょ」
酒の匂いをまき散らしながら顔を真っ赤に染めたサッチの姿を思い出す。先程殴られた痛みも蘇り、なまえは眉を寄せた。
「私がなにしたってんだよこのやろっ!」
「なにしてやがる」
「んぎゃっ!」
酒樽を蹴っ飛ばした瞬間背後からかけられた声になまえは飛び上がった。心臓が激しく鼓動し、全身から嫌な汗が噴き出る。
ぎぎぎ、と音が出そうなほど恐る恐る背後に首を回したなまえは、腕を組みながら扉に背を預け立つ人物を視界にいれ安堵の息を吐いた。
「なんだマルコ隊長か…」
「なんだとはなんだよい…」
未だばくばくと煩い心臓を宥めながら、なまえは額の汗を腕で拭った。
マルコはそんななまえを呆れた顔で見る。
「また拳骨お見舞いされるのかとひやひやしたじゃないですか!脅かさないでくださいよ!」
「お前が勝手に驚いたんだろい」
「そうですけど…。なにも気配消さなくてもいいじゃないっすかぁ」
今日は散々だよまったく、と小言を呟いていたなまえだったが、扉付近から動かないマルコにふと小首を傾げる。
「で、マルコ隊長はどうしてここに?酒取りに来た、ってことはないっすよね?」
基本酒樽を取りに来るのは下っ端の仕事で、隊長格がわざわざ訪れることは少ない。
それを知っていたなまえは問いかけるが返答はない。
自身を見つめ黙しているだけの姿に、もしかして酔っているのだろうかと考えたが、マルコの表情を見る限りそうは見えなかった。
暫く沈黙が部屋を支配したが、本来の目的を思い出しなまえは酒樽に目を向ける。
性別の違いもあってか他の隊員たちに比べ小柄ななまえには一個を担ぐので精一杯の大きさだ。
持ち上げようと酒樽に手を掛ける。
「虫にでも噛まれたのかよい」
振り向くと、マルコはじっと自身を見つめていた。その視線の先を辿り、なまえはパッと首筋に手をあてる。女よりは大きく、しかし男よりは幾分も小さい掌が日に焼けた肌を覆う。首筋はじっとりと汗ばんでいた。
「…あー、まぁそんなもんっすね!」
静かな空間に明るい声が響く。
「しっかしよく気づきましたね。隊長格ともなると洞察眼も凄まじいっすね!」
「病気にでもなっちまうんじゃねぇかい?」
なまえの言葉に被せるようにマルコの声が発せられる。
他の隊員たちが聞けば震えあがるほどに無感情な声色だった。口端が冷ややかに吊り上っている。
普段なかなか見せないマルコのそんな姿になまえは微かに目を見開いた。しかしそれは一瞬で、次の瞬間には屈託のない笑みが浮かべられていた。
「流石にそんなヘマしませんって!」
なまえは普段通りに大口を開けながら答えた。
腰に巻いていた擦り切れたバンダナをほどき、首元に巻く。
「今日は髭生やしたおやじだったんだろい?」
「あれ、マルコ隊長甲板にいましたっけ?」
「前に陸に降りた時は金髪の青年、その前は根暗そうな男、だっけか」
「ありゃ、よくサッチ隊長のそんな言葉覚えてますねぇ」
世間話を語るようにいつも通りのなまえは、しかし瞼を閉じていた。いつも相手の目を見つめるなまえらしからぬ行動だった。マルコの鋭い視線は未だなまえに向けられている。
遠くから隊員たちの楽し気な笑い声が聞こえてくる。船を揺らす微かな波の音。倉庫内は静かだった。
「白鬚の名が泣いちまうな」
睨みつけるような視線がなまえに注がれる。しかしなまえは笑みを崩さなかった。首に巻かれたバンダナを指に絡ませながら、ひどいなぁ、と冗談めかして言う。
「私も十分やってますってぇ。ほら、今日はサッチ隊長の酒代くらいは稼いできましたし」
わざとらしく怪しげに笑い、親指と人差し指を丸めて銭の形にする。
マルコはしきりに組んでいる腕を人差し指で叩いていた。トントントン、小刻みに響く音。次いで小さな舌打ちが漏れる。
「男より男らしくなんてよく言えたもんだよい」
吐き捨てるような声だった。なまえに向けられていた視線は床を睨みつけている。
沈黙が部屋を支配する。
「だって、」
声と共に、今まで閉じられていた瞼が開かれる。声に導かれるように視線を上げたマルコは驚愕に目を見開いた。
なまえはあでやかに微笑んでいた。それはマルコにとってはじめてみる顔だった。
「呑み込まれる方がきもちいいから」
女の声で呟かれた言葉にマルコの息が詰まる。
目の前の存在が女だなんて分かりきっていたはずなのに、艶やかな声に、表情に、衝撃を受けたかのように声が出なかった。
そんなマルコの姿に目を細めたなまえは、しかし次の瞬間には先程までの妖艶な雰囲気など嘘だったかのように歯を出してニッと笑った。
「ま、陸くらいでは羽目を外しても罰はあたらんでしょう。よほどのことがない限り相手は選ばないんで病気の有無はなんともいえませんけど、今のところはたぶん大丈夫っす!」
ささくれた指が首に巻かれたスカーフを弄ぶ。布の尾がひらりひらりと揺れ、首元から解かれた。小麦色に焼けた肌にぽつりと浮かぶ赤い痕。
マルコは確かめるようにじっとなまえの瞳の中を覗き込んだ。そこは星も浮かばぬ夜の海のように真黒で、どれほど目を凝らそうと自身の姿が映っているだけであった。
マルコは自身から目を逸らすように顔を横に向けた。
「…陸だけかよい」
独り言のような小ささで呟かれた声が倉庫内に虚しく響く。
「マルコ隊長さえよければ、明日一緒に街に出ます?」
まるで買い出しに誘うかのような気のない素振りで発せられた言葉にマルコは弾かれたように顔を上げた。
しかしマルコの脳内に浮かんだ女の顔をしたなまえなどどこにもなく、いつの間にか大きな酒樽を軽々と担いでいたなまえが悪戯っぽく笑っているだけであった。
「なんちゃって!んじゃ、そろそろサッチ隊長にどやされそうなのでお先に失礼します!」
すんなりとマルコの隣を横切ったなまえは急ぎ足でサッチの元へと向かう。足取りは軽く、外から聞こえてくる隊員たちの歓声に合わせるように口笛を吹いた。
石のような沈黙が支配する倉庫内には、切れかけたランプの光が弱弱しく発光していた。