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「人生を無駄にしているとかしていないとか、所詮は人間が定めた基準で、でも本当は例えどんなことをしていても限りある時間を無駄にしているとは言えないんじゃないかしら」

 なまえは言った。葉の掠れる音に乗せるように。

 なまえは去年の春からこの山奥の診療所で暮らしている。普通では治せないような病を患っているらしい。薬も効かない、けれど命に別状はないような、そんな病。
 彼女の暮らすここは診療所と言ってもとてもそうは見えず、僕が暮らすアパートよりは幾分も小奇麗だった。外界からの刺激を極端に避けるようにテレビは勿論ラジオも雑誌もなく、あるのは日に焼けた茶色い紙が目立つ数冊の小説だけ。けれどここの住人たちはそれを手に取ることはなく、それらは本来の役目を果たすことなくただの紙束としてそこにあるだけだ。まるでここの患者たちのように思えた。
 なまえの部屋には寝室と居間があって、壁紙は薄ピンクの花柄だ。僕がその部屋をかわいいねというと、彼女はでしょう、と薄く笑んだ。有楽町にあった以前の味気ない白い部屋に比べると、なまえの新たな新居には人間味があった。ないそれを補うみたいに。
 僕は三月に一回はここにくる。そのたびになまえのルームメイトの女性に部屋を移ってもらって、なまえのベッドに僕が、ルームメイトの彼女のベッドになまえが寝る。なまえの香りに包まれたそこで、僕は数日の夜を過ごす。彼女に包まれているようで、ここで過ごす夜はいつも眠れない。目が冴えてしまう。けれど彼女の肌を隣で感じながら眠る日はぐっすりと眠れるのだからおかしなものだ。
 なまえは微かに花のにおいがする。それはきっとここが自然に囲まれているからで、なまえがいつも畑仕事をしているからだと思う。緑に囲まれながら生きているここの住人は、限りなく生き物としての生活を正しく送っているはずなのに、僕たちが定める"普通"とは異なる。
 見渡す限りの緑だった。木々の茶とコスモスの黄色が僅かに混じっている。僕たちは一本の太い幹に腰かけながら、二人で支え合うように寄り添っていた。風が強く、肌寒かったが、そこに在り続けた。吹きすさぶ風に乗ってなまえの長い黒髪が彼女の顔を隠す。「ふふ、」と彼女が笑うから、つられて僕も少し笑った。

「ねぇ、いつもはなにをしているの?」
「いつも?」
「東京にいるとき、学校にいるとき、あとは、私を思い出しているとき」

 僕を見つめながら、なまえは子どものようにゆっくりと話した。僕は彼女の話を急かすことなく、最後の一文字が紡がれた後も暫くはなまえの唇を見つめ、そこから音が紡がれなくなったことを確認してから少し思案した。彼女は口を閉ざした僕の唇をじいっと見つめる。まるで蝶々を観察するような隙のない、けれど柔らかな目だった。

「東京にいるときは大抵バイトかな」
「本屋の?」
「そうだよ」
「たのしい?」
「ううん、どうだろう。バイトを楽しいと思ったことはないけれど、僕の知らない本たちを手に取って棚に並べるのは好きだよ」

 なにを想像したのか、なまえは含み笑いのような笑い方をした。風はいつの間にか止んでいた。ところどころに痣がついた彼女の細く白い脚がもぞりと動く。僕はちらりと横目で伺う。

「学校にいるときは?」
「たいしたことはしてないよ。勉強をして、図書館に行って、偶に食堂でご飯を食べて、それを毎日」

 こことは違い流れる時の中を生きているというのに、今思い返すとまるでなまえと同じような生き方をしているな、と思った。過ぎ去る時を感じさせないような、止まった時間の中を生きるような。実質僕の生活はここの患者たちと大差ないのかもしれない。勉強をして、ご飯を食べて、それ以外はずっと本を読んでいた。一人で暮らすようになってから、途端に僕の生活は静かになった。常に時間に縛られないものに囲まれ、僕の人生というよりも、物語の中に生を置いているような。
 風が冷たくなってきた。春が近づいてきたとはいえ、やはりこの時期はまだ寒い。けれどそれが心地よくもあった。四季だけが僕たちに時間を与えてくれる。ここは夏には青々とした緑が茂るし、秋には紅葉が山を真っ赤に染め上げるし、冬には雪が降るし、春にはさわやかな風が吹く。きっと四季がなかったら、ここの住人たちは一生年を取ることなく、永遠に生き続けるのだろう。それこそ、濁流のように流れる時の中を生きる僕らとは違って。僕もきっと、その濁流の中から溢れ出そうになっているのだ。それがいけないことなのか、僕にはまだわからない。

「じゃあ」
「じゃあ?」
「私のことを思っているときは?」

 少し、ほんの少しだけ言葉に詰まった。彼女を思い出す瞬間なんて、それこそ日常の習慣みたいに何度もあって、それはふとした時に訪れるからだ。
 僕は暫し逡巡する。眉間に刻まれた皺がそんなにおかしいのか、彼女はねこみたいな顔をした。赤い舌がのぞく。

「言えないことしてるの?」
「そんなこと、」

 していない、とは言えないのが情けなかった。嘘を吐くこともできた。けれどなまえにつくことは憚られた。なにも偽らない彼女に、僕も自然とそうなってしまっていた。
 口をもごつかせる僕に、いいのよ、と彼女は言う。とっても嬉しいわ、と。

「私を思い出してくれるだけで、それだけで嬉しいの。それが人には言えない事柄であるなら、余計に」

 なんの恥じらいもなく、ただ純粋に喜ぶ彼女を見て、僕は少し自身の幼さがいやになった。このくらいのことでまごついている僕と比べ、彼女が随分大人びて見えたからだ。現になまえは年齢より大人びているのだと思う。僕の周りにいる人たちは彼女のように洗練されてはいない。そう思ってしまうのは、僕が彼女の全てを知らないからだろうか。僕の中の彼女は落ち着いていて、思慮深くて、優しくて、いつも柔らかい目をしている。けれど彼女の全てを構成する要素がそれだけだったなら、なまえはこんな場所に暮らしてはいないだろう。
 ここは長くいるべきところじゃない。いずれ元に戻れなくなるのでは、と思ってしまうところだ。
 あたりは暗くなり始めていた。一番星が見える。
 時の流れを置いてけぼりにする寂しい宇宙が、すぐそこまで迫っていた。

「もう帰ろうか、冷えは体によくないよ」

 冷え込んできた空気に僅かに身を震わせた彼女を見て、囁くように言った。「もう少し」彼女は頭を振った。
 ここの夜に身を浸すなまえは、いつにもまして神聖に見える。あまりにも神聖で、触れがたくて、まるで自ら手の届かない場所に行きたがっているような気さえした。
 花のにおいが強くなる。夜の乾いた空気とそれは矛盾しているように思えて、僕の嗅覚は敏感にその甘さを感じ取った。
 溺れそうなほどのにおいから逃れるように空を見上げる。街灯も何もないここでは瞬く星が鮮明に見える。春の大三角形もはっきり見えた。ここからはその全容が見えるのに、きっとその三角形を形成する星たちは途方もない距離を隔てているのだろう。あの世とこの世ほどに。

「ねぇ」

 なまえが言った。その瞳は星を映したままだった。彼女の青白い顔が闇に浮かぶ。アークトゥルスを切望するスピカの横顔そのものだった。
 ごほり、彼女が咳込んだ。噎せ返る花のかおり。

「ずっとここにいてくれる?ずっと、ずっと」

 彼女が告げた。「うん」条件反射のようにそう答えていた。彼女は小さく微笑む。僕も同じようにわらった。
 きっとあと二日もすれば、僕はまた流れる時の中に身を置くことになるだろう。そうして三月はここに顔を出さない。それは定められたルールで、僕がここに囚われないための方法でもある。それを僕は十分承知しているし、なまえだって分かっている。けれど僕たちは今この瞬間、永遠に共にいる約束をする。
 夜空を見つめる彼女を横目に、僕はいつも思う。彼女がこの寂しい場所を離れる日は来るのだろうか。アークトゥルスがスピカを迎えに来る日は叶うのか、と。

 白の花弁が舞った。




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