main | ナノ



 戻らないといけないんだ、彼はそう言い残して姿を消した。私たちが東京の地で同棲を始め、数年経った日のことだった。
 私は昔からおかしな人間だった。たとえば小学校の理科の解剖実験の時、たとえば道路に横たわる血まみれの猫を見たとき。その時々で共にいた友人知人が私を奇怪な目で見つめながら、恐れの滲んだ声で言うのだ、「貴女はおかしい」と。私自身その言葉の真意を理解していなかったが、今ならわかる。
 私はたしかに他とは少し違っているのかもしれない。

 手に持った棒状の木材は血に塗れ赤黒く染まっている。目の前には目から血を流した人が地面に転がっていた。
 いいや、これは"人"ではない。人のような"ナニカ"だ。

「いたいのかな、」

 まるで"ナニカ"が涙を流しているように見えて、頬に触れようと手を伸ばす。しかしその屍が息を吹き返したように身体を痙攣させたことにより、伸ばしかけた手を引き、背を向ける。ここに来るまでに倒してきた屍たちは一度撲殺しても数分、もしくは数秒後には復活していたから、今倒したアレもすぐに動き出すはず。
 羽生蛇村という都心から随分離れた農村にやってきて早二日、まさかこんな目に遭うとは思いもしなかった。昨日まではなんて変わりのなかったこの村がこのような状態になってしまったのは、今日、サイレンが鳴り渡ったその時から。人々は涙のような赤い液体を瞳から流し、襲ってくるようになった。
 司郎と共に医大に通い、外科医として働いていた経験もあるが、こんな病状は初めて見る。人が人じゃなくなる、なんて。
 瞳から流す涙も、なにか意味があるのだろうか。屍たちも、苦しみや悲しみを感じているのだろうか。

「なんて、ね」

今置かれている奇異な状況よりも血の涙の方が気になるだなんて、おかしな話だ。こういうところが奇怪な目で見られる要因なのかもしれない。

「あ」

 ぽつりとなにかが頬に零れ落ちたのを感じ、空を見上げる。

「あめ、」

 着ていた雨合羽についていたフードを目深に被ることで雨を凌ぐ。長旅になると予想してかさばる傘ではなく雨合羽を持ってきていたのが功を成した。
 彼らの流す血の涙のような赤い雨。もしかしたらこの中に人体に害を与える化学物質かなにかが含まれているかもしれないから、触れるのは危険だ。
 できるだけ雨に濡れないようにと民家や木々の葉の下を通るようにし、目的の場所に向かって駆ける。
 この羽生蛇村にあるという宮田医院。かつての恋人であった宮田司郎の居場所を捜し求めてたどり着いたのがこの場所だった。碌にネット環境もないような辺鄙なこの村を訪れようという気になったのは、ほんとうに偶然だ。彼についての情報を得ようとパソコンを触っている時にたまたま羽生蛇村に行ったという人の書き込みを見て、その中に出てくる宮田医院という院名や、院長であるという宮田さんという人が司郎の特徴に似ていたからという、不確かな理由だけでここまで来た。
 多忙である外科医という仕事を続けながら司郎を探して二年、仕事を辞めて本格的に捜索をはじめてまた二年。ここまでくるとストーカーかなにかと思われても仕方ないのかもしれないが、私はどうしても諦めきれなかった。
 私と同じでどこか異質だった司郎。彼と出会う以前に付き合っていた恋人たちの中にはもちろんこんな私を受け止めてくれる人もいたけれど、彼らと司郎は違う。
 司郎と私は似ているのだと思う。根本的な部分が。

「…あった、」

 目の前に聳え立つ古びた病院に掛けられた看板には宮田医院の文字。
 恐怖は感じないはずなのに、何故か身体が震える。

「あ、はは」

 思わず笑みが零れだす。
 こんな不気味な状況に私一人だというのに、口の歪みは収まりそうもない。きっと友人たちが今の私を見れば驚きの声をあげるに違いない。普段感情を表に出すことが少ない貴女がこんなに笑顔になるなんて、と。
 この医院の中に司郎がいるかも定かではないのに、私には確信があった。きっとここに司郎はいる、そうに違いない。こんな奇怪な現状も私にそう思わせる要因になっているのかもしれない。司郎は昔から秘密のある人だった。なにかを隠そうとしているような、そんな気配があった。
 私と同じで異質な司郎が、奇怪なこの村に住んでいる。どこか陰鬱とした村の端々から司郎の気配を感じる気がして、改めて大きく息を吸い込む。

「しろう、」

 手に持った木材を握りしめ、病院に足を踏み入れる。中は真っ暗で、微かに廊下の先を目視することはできるが視界は悪い。
 こんな時私の異質さは便利だと思う。恐怖も何も感じないから、闇に動じることなく前に進める。
 階段に向かうまでの廊下に一体、階段に差し掛かった場所で一体、計二体の化け物を倒した。もしかして司郎も化け物になっていやしないかと不安に思ったが、今のところ出会った化け物たちの中に司郎はいなかったからきっと大丈夫だろう。私が生き残っているくらいだから、きっと、きっと司郎も生き残っているはずだ。
 しかしざわめく心はなかなか落ち着きそうもなかった。司郎は大丈夫だと思い込もうとしても、不安は次から次へと溢れ出てくる。

「司朗、どこなの…?」

 もう何部屋のドアを開き、何段の階段を上ったのかも分からない。
 ここに司郎がいるはずだと心が訴えているのに、依然司郎は見つからない。
 暗い廊下を急くように歩く。
 司郎は、司郎はどこ?彼が姿を消してから数年、やっと彼を見つけられると思ったのに、

「―――なまえ?」

 背後から聞こえた耳に馴染む声に、一瞬脳内が真っ白になる。

「し、ろう…?」

 声の主を確かめようと、勢いよく背後を振り返る。心臓が痛いほど鼓動を刻む。驚くほど荒い自身の息遣いがどこか遠くから聞こえる。先ほどまでいた世界から切り離されたように。

「ぁ、」

 言葉にならない声が出る。目の前が滲んで彼の顔を不透明にする。
 あぁ、流れる涙が鬱陶しい。これじゃあ碌に司郎の姿を見ることもできないじゃないか。

「しろう、しろう、」

 請うように彼の名を呼び、少し離れた場所にいる彼の元に歩み寄る。
 足元が覚束ない。ここまで走ってきたからか、もしくは司郎に会えたことによる安堵からか口内がからからだ。
 私を見つめる司郎の目は昔と全く変わっていない。闇をとじ込めたような、真っ黒な瞳。彼の瞳を見るとなぜだか落ち着くのだ。心の渇きが満たされるような感覚というのをようやく思い出した気がする。彼と一緒にいたころは毎日感じていたというのに。

「やっと、」

 手を伸ばせば彼に触れられる、その僅かな距離がもどかしい。

「しろ、」

 続く言葉は生々しい音によって遮られた。木材で屍を殴ったたびに聞いた音。篭ったような、骨が砕けるような、命を絶つ音。

「まさか来ていたなんて…、よくここが分かったな」

 先ほどまで視界に映っていたはずの司郎の顔はなく、目に映るのは男物の黒い革靴と薄汚れた床だけ。
 頭が割れるように痛い。一瞬見えたネイルハンマーと、愛しい黒い瞳。冷たい廊下に触れた部分から身体の熱が奪われていくのを感じる。全身が凍えたように震える。だというのに喉の渇きは収まらない。邪魔な涙がしとしとと頬を濡らす。恐怖など感じていないというのに。

「し、ろ」
「雨合羽も着ているというのに、いやに屍人化が早すぎないか?もしや体質かなにかも影響しているんだろうか」

 司郎の声がどこか遠くから聞こえる。まるでなにか透明な膜で遮られてるみたい。
 目からはとめどなく涙が流れ落ち、彼の姿を見ようと懸命に目を見開く私の邪魔をする。
 床に広がる赤い水。

「なまえ」

 彼の手が私のかみを梳く。その手はやさしかった。まるで眠るこをあやすみたいに。

「ぁ、ぅ」

 あぁ、あたたかい。かれの手はあたたかい。ひどくおだやかなきもちになって、かすかにほほえむ。しろうがわらっている。わたしを見つめながら、しあわせそうに。
なんだかねむたくなって、ひらいていた目がだんだんととじていくのをかんじる。こころの中はいとしさに満ちていた。しろうがここにいる。それだけでこんなにもこうふくだなんて。

「おやすみ、なまえ」

 腕をふりあげほほえむ司郎をさいごに、わたしはそうっと目をとじた。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -