main | ナノ



雨音が止まない。部屋の中は妙に蒸し暑かった。

布団の中はむわりと不快な湿気が漂っている。しかし被った布団から抜け出す勇気はなかった。
あれからどれほどの時間が経っているのだろう。
時計を見れば午後三時を示していた。
だというのに部屋の中は薄暗く、閉じられたカーテンの向こうからは光なんて入ってこない。きっとどんより淀んだ空が存在しているのだろう。

雨音は未だ止む気配はない。

「……」

被っていた布団を体に巻き付けたまま窓際に近づく。
心臓が嫌な鼓動を刻んでいる。どくんどくんと五月蠅い心音が耳元で聞こえてくるようだ。
お願い、お願いと誰にともなく祈りながらそうっとカーテンの裾を掴む。
あぁ、汗ばんだ手が鬱陶しい。
木綿でできた布がしっとりと濡れている。きっと湿気と手汗のせいだ。
震える手を抑え、騒がしく暴れまわる心臓を宥めすかす。
きっと大丈夫、あれから三日は経っている、大丈夫、だいじょうぶ、

深く深呼吸をし、意を決してカーテンを開いた。
僅かに開かれた隙間から予想していた通りの曇天が覗いている。
いやな空だ、死のにおいがする。
空に向けていた視線をそうっと下におろす。
二階の窓から見える景色はここ何年も見慣れたもの。人通りの少ない細い路地と、ぽつりと佇む電柱、そして電柱の足元に置かれた青いゴミバケツ。

「いな、い…?」

そこにあったのはなんら変わらないいつもの光景だった。電柱はただそこに寂しく佇んでおり、薄汚れたゴミバケツからは白いビニールが覗いているだけ。
三日間怯え続けていた薄気味悪い女の姿は影も形もなかった。

「何処かにいった…?」

記憶に残るあの女を思い出してぶるりと身震いした。部屋はこんなにも蒸し暑いというのに悪寒が止まらない。
この部屋の中を見つめる不気味な瞳が未だこの部屋を監視しているような気がして、堪らず勢いよくカーテンを閉めた。

「っなんで…」

こんな目、欲しくなかった。

奇妙なものたちは常に私の傍に居た。
まるで私を監視するかのように見張っているのだ。
あの女もそう、埴輪のような無表情を浮かべたあの女、奴は私を見張っていたのだ。奴らの世界に連れ去る機会を虎視眈々と狙っていた。
はじめは人間だと思っていた。電柱脇に佇む女に頭を下げ挨拶なんてしたのが間違いだった。奴らは自分の姿を認識できる存在を渇望している。己の抱く恨み辛みをその人間にぶつけようといつなんどきも獲物を探しているのだ。

すべてこの目のせいだ。私の人生はこんな二つの小さな眼球なんかによって歪めさせられている。

「、なんで私だけ」

何度この解なき疑問を自身に投げかけたか。
他人になくて私だけにあるもの。
人より秀でている才能がこんな能力だなんて、笑い話もいいところだ。こんなのなんの足しにもなりはしない。奴らを見える気持ちを真に理解してくれる人なんて誰もいない。
死さえ恐ろしいのだ。この体から魂が解き放たれた時、その魂ごと奴らに奪われ連れ去られてしまわないかと常に怯えている。そんな私は自殺さえできない。延々と続く恐怖に晒され蹂躙されるしかない。

雨音は続く。私と世界を隔てるように。

「っ、ぇ?」

かん、かん、と錆びれた階段を上がってくる音がした。

ざあざあ、かん、かん。

雨音に混じって近づいてくる音にゾッと肌が粟立つ。
もしかしたらあの女かもしれない。なにかがこちらに来ようとしている。
徐々に大きくなる足音、気配、雨の音。
体が震えた。吐き気さえする。玄関扉から急いで距離をとる。背後は窓だ。あの女が見つめていた窓。どこにも逃げ場はない。

助けなんて、ない。

「っ、」

布団をきつく体に巻き付け、敷布団の上に蹲る。

かみさまお願いします助けてください、かみさまかみさまかみさま、

足音がぴたりと止まった。私の部屋の前で。
こんこん、小さく響くノック音に体が大きく震えた。

「ヒッ、」

扉の外の気配を私が感じているように、扉の向こうにいる存在もこちらの気配を感じているのだろう。
ノック音は鳴りやまない。
こんこん、どんどん、バンバンバン!
まるで怨み言を吐き出すように激しく叩かれる扉がひどくおそろしかった。
だれでもいい、たすけて、だれか、だれか…っ、

「おい」

外から聞こえた聞きなれた声に勢いよく顔をあげた。

「いるなら返事をしろ。どうせいるんだろ?」
「…はち、や?」
「ほらな、いるじゃないか」

勢いよく起き上がり玄関に向かって走る。
もしかしたら扉の向こうにはあの女もいるかもしれない、なんてことはすっかり頭から抜け落ちていた。
扉を開けた先には驚いた顔をした奴のアホ面。安堵だか腹立たしさだかわからない感情が胸に溢れて、きっと今の私はひどい顔だ。そんな顔を奴に見られたくなくて、私は勢いをつけて奴の肩に顔を埋めた。

「うわっ、なんだ急に」
「、……それはこっちの台詞だくそ鉢屋」
「はぁ?」

呆れた様子の奴に「ビビらせやがって」と吐き捨てる。
あぁ、声が震えているのが情けない。
しかし体の震えはおのずと収まっていた。
きっとこれはあれだ、鉢屋の苛立たしいアホ面を見たことで恐怖心が薄れたのだ。奴が来てくれたことに安堵したわけでは決してない。

「相変わらず意味がわからん奴だなお前は」
「…うるさい、」

どうせ大学の課題レポートの参考に使う本を借りにきたんだろう奴に救われたなど、私は断固として認めない。

「で、いつまでこうしてるつもりだ?」
「…雨があがるまではいてもいいよ」

せっかくここまで来たのだから、珈琲くらい淹れてあげてもいい。
心に沈殿していた恐怖心が嘘かのように消え去ったことには気づかないふりをして、素っ気なく呟いた。
決して鉢屋の存在に安心しているわけではない。
決して、だ。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -