子供が二人
ヒールの音が、やかましい。
心地良い酔いはすっかり抜けて、冷たい空気が肺に入って苦しい。
走ったのなんて、何年振りだろう。
(ていうかなんで走ってるんだろう…)
多分それは、勢いとか雰囲気とか。
だって勢いをつけなきゃ、出来ないから。
今からしようとしていることを世間一般の人達が知ればきっと眉をひそめる。
”モラルに反する”
”誑し込んだ”
”見境無い”
そんな事わかってるよ。
良くない事だなんてわかってて。
最初からずっと。私は大人であの子は子供なんだからって。
離れていくのなんて仕方ないって思ってた。
そう、思ってた。
雅治君は、こんな八歳も年の離れた女なんかじゃなくて、もっと若くて、キラキラした可愛らしい女の子と健全にお付き合いするべきなんだ。(健全という言葉があまりにも雅治君に不似合いだと思ったけどそれは気にしてはいけない。)
そんな女の子にご飯の心配してもらったり一緒にテレビを見てとりとめのない感想を言い合ったり、休日は部屋でのんびりダラダラしていればいいんだ。
(あ、でも若い子同士ならきっと外で遊んだりするよね。)
走りながらそこまで想像して、思い切り顔をしかめる。
胃のあたりがムカムカとして気持ち悪い。
そんなの、絶対に嫌だ。
やっぱり嫌なんだ。
嫌に決まってる。
そんなの、雅治君がいないだなんて、どうしたって嫌だ。
雅治君が他の人のことを好きになるのは、もっと嫌。
雅治君の、あの安心しきったような幸せそうな顔を他の人になんか見せちゃ駄目だ。
私にとって雅治君は、絶対に欲しいもので、今後の人生において必要で。
大好きで可愛くって愛おしくて。
もっと真剣になって手に入れようとしなくちゃいけなくって。
脇腹がズキズキと痛み、脱げそうなヒールと怠い足が辛い。なんだか頭もぼーっとして目の前が霞んで見える。
走り慣れていない身体は限界を迎え、意志とは反対に足が勝手に動きを止める。
(やばい…膝痛い)
歩道に立ち止まりぜえはあと息を整える。
‥‥‥たった300メートル程を走っただけで。
それに大して速く走れていたとは思えない。
どれだけ体力が無いんだろう。自分の情けなさに嫌気が差す。
(煙草、良くないなあ…)
長年の習慣を嘆いてもどうにもならない。
よろよろとまた足を動かす。
別に、走る必要なんてないけど。
ただ、早くしないとこの気持ちが、また萎んでしまいそうな気がして。
今からしようとしていることが怖くてたまらないから。
臆病だ。全然戦国武将なんかじゃない。
こうやって、お酒を飲んで先輩に応援されて、勢いをつけるために馬鹿みたいに走ったりしないと、きっと成し遂げられない。
私は、雅治君に応えたい。
そのために、走る。
***
(‥着いちゃった)
結局、走り続けるのなんてどう考えても無理で、途中から歩いた。
それでも確実に明日は筋肉痛だろう。
アパートに近付くにつれてどんどん足が重くなり、心臓はバクバクと早鐘を打った。
出来るだけゆっくりと外付けの階段を上り雅治君の部屋の前に立つ。
家に居るだろうか。
まだそれほど遅い時間じゃないから寝てはいないと思うけど。
すうはあと、深呼吸を繰り返す。
チャイムに指を近づけては離す。
それを数回繰り返して、指が震えているのに気が付いて情けなさが込み上げる。
(何歳だよ私は……)
こんなにドキドキしたのは絶対に初めてだ。
顔の筋肉がこわばっているのがわかる。
(ああ、駄目だ。)
くるりとドアに背を向け右隣の部屋の鍵を開ける。
(一服してから。)
そうだ。落ち着こう。余裕を取り戻すために煙草を吸いましょう。
それがいいそれがいい。
いつものように蛇口を捻り、出てくる冷たい水で手を洗う。いつもよりも丁寧に。うがいまで済ませれば気持ちは幾分落ち着いた。
そもそも。
そもそも、だ。電話で済ませてしまっても良いんじゃないだろうか。
だって顔を見たら絶対に余裕なんて吹き飛ぶ。
(格好悪いとこ、見せたくないし。)
そうだよ。面と向かって告白だなんて、出来るわけが無い。
煙草の箱とライターを掴みベランダへ出る。
ベランダの床はキシリと音を立てた。
一本取り出した煙草を咥える。
「聡美ちゃん」
「へ」
隣りのベランダ。胸あたりまである柵の向こう。
「雅治君」
◇◇◇
「久しぶり、聡美ちゃん」
「久しぶり、雅治君」
「こんばんは、聡美ちゃん」
「こんばんは、雅治君」
会えるかも、そう思ってベランダにいた。
10分くらい前にベランダに出て、寒くて、暇で。もう今日は諦めようとしていた所だった。
今日が駄目なら明日。明日が駄目なら明後日。
今日の昼休みにした決意を直接会って聴いてもらいたかった。
「聡美ちゃん、なんそんな驚いた顔しとるん」
隣りのベランダで目をぱちくりさせている聡美ちゃんは火の着いていない煙草を咥えたままだ。
「お、お、驚いてないよ」
なんだこの聡美ちゃん面白い。
「なあ、聡美ちゃん聴いて?」
「う、う、うん。何かな」
柵を挟んで向き合う。
久しぶりに見た聡美ちゃんは、少し痩せたような気がした。
泣きそうな目をしていて心がざわりとした。
言いたいことが、纏まらない。
「聡美ちゃん、俺聡美ちゃんのこと好きじゃ」
結局これになる。
昨日も伝えたけど、全然伝えきれない想い。
「ほんと、好きで、苦しいくらい。でもその苦しいのも聡美ちゃんのことでならなんか気持ちいくてな、なんなんじゃろ。俺マゾじゃないんに」
「あ、うん…」
「これからも、ずっと好きでいるから。辞めんよ、俺。駄目じゃっつわれても絶対ずっと好きでいる」
「な、え…」
「じゃから、聡美ちゃん」
「はい…」
「覚悟、しとって」
聡美ちゃんの頬がすうと赤くなった気がした。
聡美ちゃんはいつもドラマなんかでの俳優の気障な台詞を異常に恥ずかしがるから(うっわあ、この人恥ずかしいいい、なんて言ってクッションに顔をうずめたりする)。多分今もクッションに顔をうずめたいぐらい恥ずかしいんだろう。
俺もなんだかいたたまれなくなってきた。
ああ、なんという恥ずかしいことを言ってしまったのか。
スッと、目の前に手が伸びてきた。
ほんの少し、震えている。
「聡美ちゃん?」
「手を触らせて下さい」
どうしたんだろう。戸惑いながらも聡美ちゃんの小さな手を握る。
聡美ちゃんの手は冷たくて、久しぶりの…本当に久しぶりの聡美ちゃんの感触に、ああ、好きじゃなって、思った。
「好きだよ」
「おん、ありがとな」
俺を、聡美ちゃんは好きだと言ってくれる。
聡美ちゃんからの愛情なんてとっくの昔から感じている。
俺の好きとは、違う意味の"好き"
「あの、好きよ?」
「おん、俺の方が好きじゃけど」
「だから、」
聡美ちゃんのそれは、きっと家族とかに対する情と同じで。
まだまだ相手にされていない。
でも決めたんじゃ。諦めんって。
「雅治君、好きなんだってば」
「聡美ちゃん、それ以上言われると泣きたくなるけえ」
「あの、えっと、」
本当に、何回もそんなことを言われたら勘違いをするじゃないか。
さっきから聡美ちゃんは泣き出しそうな顔で、目線を泳がしている。
キュッと、聡美ちゃんの手の力が強まった。
「キス、を…したい」
聡美ちゃんの顔は更に赤らみ、繋いでいた手に熱を感じて。
『キスをしたい』そういわれた気がした。いや、そんなわけない。どんな幻想だ。
聞き返そうと思ったら、手を思い切り振り払われた。
「聡美ちゃん?今なんて、」
あ、とか、う、とか口を開いては言葉にならない声を洩らしてうろたえている。
その顔は、真っ赤で、今にも泣きそうで。
(かわええ。)
そう思ったと同時に聡美ちゃんは物凄い速さで自室へ逃げ込んだ。
「…え?は?」
隣の部屋からドンッと大きい音が響く。
…まるで焦って転んだような音。
「……えっと、マジか」
呆然と寒いベランダで立ち尽くす。
さっきの聡美ちゃんを思い出せば、じわりと、頬に熱が宿る。
今のは、えっと、つまり。
都合の良い解釈を、しても良いんだろうか。
自問自答したのちに勝手に足が動いた。自分の部屋に駆け込みそのまま外へ出る。
合鍵を取り出そうとして返してしまったことを思い出す。
(ああ、ほんま返すんじゃなかった)
生まれて初めてするピンポン連打。
指が疲れ始めたころにかちゃりと錠の外れる音がした。
内側から開くのを待たずにドアを開け隙間から玄関に入り込んで、そこにいた聡美ちゃんの華奢な身体を勢い良く抱きしめる。
ふわりと聡美ちゃんのいつもの甘い匂いとそれに混じった酒の匂いがした。
「聡美ちゃん、ひとつ聞いてええ?」
「…はい」
聡美ちゃんの、か細い声と俺の心臓の音が脳に鳴り響く。
「酔ってんの?」
「は?」
「酒くさい」
「あ…少し飲んだけど酔ってません」
「ほんと?」
「ほ、ほんとう」
ホッと胸を撫で下ろす。
聡美ちゃんを抱きかかえながら靴を脱いで久しぶりの聡美ちゃんの部屋に上がる。
「なあ、聡美ちゃんさっきキスしたいってゆった?」
聡美ちゃんの足を床におろせばへたりと座り込んだから俺も一緒に座る。
髪と首筋の匂いを嗅げば落ち着いて、それなのにどうにかなりそう。
「い、言ってない」
「嘘。してええ?」
「まっ、て」
「わかった、待つ」
待つのなんか、聡美ちゃんと一緒にいたら得意分野になってしまった。
背中に手を這わせなぞれば触り心地の良いスーツの生地に温かな体温。
「聡美ちゃん、俺のことどう思っとる?」
「さっき!何回も言ったのにっ、」
「すまん。もっかい」
今までずっとそらさせていた目が合う。
「す、き」
「もっかい」
「好きだよ、雅治君」
「死ぬかも、俺」
「ねえ、雅治君あのね、」
甘えたように俺の胸に顔をうずめる聡美ちゃんの頭を撫でた。
「何があっても、責任は私が取る」
「幸せにする」
「離さない」
「だから、」
聡美ちゃんが口にしたのは、甘えた仕草とは正反対の男らしい台詞。
本当に、どこまでも聡美ちゃんは聡美ちゃんだ。
「一緒にいて」
胸から顔を離して俯きながらそう言った聡美ちゃんの顔を下から覗き込む。
互いの息遣いを鮮明に感じ取れるほどに顔の距離は近づく。
伏し目がちだった聡美ちゃんの睫毛が揺れて、目線が、絡む。
「なあ、まだ待つ?」
「もう、いいよ」
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