告白



『ばっかじゃねえの。俺ならもっと上手くやるね』

教室で屍のように机に伏せっていた俺にそう言ったのは、丸井。

『仁王、お前の私生活に口を出す気は無いけど体調管理くらいして貰わないと困るよ』

部活が終わった後、真剣な表情でそう言ったのは幸村。



一人で部屋にいると無性に寂しくなって、夜が長く感じて、ぶらっと外に出た。
レイトショーでも見に行こうかと映画館へ足を向ければ驚くほど見たいと思う映画が無かった。

夜8時、公園。
ベンチに腰掛け少し温くなった缶コーヒーを握り締める。
夜は絶対に何か食べろ、と昼を抜かした俺に丸井が言った。
コンビニでコーヒーとカロリーメイトを買った。

神奈川に珍しく大雪が降ったのは一週間前。
聡美ちゃんの部屋に行かなくなったのも、一週間前。

意外と耐えられるものだ。
腹は減らないし、なんだか四六時中眠い。
ただそれだけだ。
夜ベッドに入ればすぐに朝になって学校へ行ってテニスをして家へ帰る。
直ぐに寝る日もあれば今日のように外へ出る日もある。
その繰り返し。


聡美ちゃんに会うまでの日々に戻っただけ。

俺は前までこんなにつまらない日々を過ごしていたか?
いや、前はそれなりに楽しかった気がする。
一人暮らしを初めてからは本当に自由で、好きなときに好きなことをして、気まぐれに適当な女と遊んだり。
それなりに満足していた筈なのに、
今はそれが、ただただつまらない。

たった一年でこうも変わってしまったのだと改めて思い知らされて愕然とする。

聡美ちゃんと一緒にいる時間は楽しくて幸せで。
我慢の連続でもどかしくて、でもそれすら今思えば好ましい感情だった。
それを、俺は、壊したんだ。
聡美ちゃんを困らせたくないなんて理由を付けて、でも本当は自分の為に。


公園の隅にほんの少し残った雪が一瞬眩しく光った気がしたけど、それは車道を走る車のライトを反射しただけだった。
車通りも少なく、弱々しい街灯が一本だけ立っているこの公園は暗くて、寒くて、
それでも自分の部屋に独りでいるよりは幾分ましだ。


かじかむ手で携帯を取り出す。
それをパカリと開ければ聡美ちゃんが笑っていた。

(会いたい…)

会いに行ってしまおうか。
‥‥会ってどうする、また今まで通りの関係を続けられるとでも?

(ただ会いたいだけなんじゃ)

声が聞きたい。”雅治君”と、呼んで貰いたい。
指は勝手に電話帳から聡美ちゃんの名前を探していた。

この発信ボタンを押せば聡美ちゃんと繋がる。
この指を、ほんの少し動かすだけで。

押そうか、止めようか、ぐるぐると同じ事を考えていたら気持ちが悪くなった。

止めよう、そう思って電源ボタンを押した、筈が間違えて左側のボタンを押していた。
カチ、という音が静かな公園に響く。

(うわっ、やばい…)

1コール鳴る。

(何話そう何話そう何話そう)

2コール目が鳴る。

(「久しぶり、元気か?」、かのぉ)

3コール目。

(うわ…やっぱ切ってしまおうか…)

4コール目。

(出ん…)

もう切ろう、そう思って耳から携帯を離して画面を見たところで、画面の文字は発信中から通話中に切り替わった。
恐る恐る再び携帯を耳にあてがう。

「もしもし?雅治君?」

電話越しの聡美ちゃんの声は、たった一週間だというのにとても懐かしかった。

「もしもし?」
「あ‥聡美ちゃん」
「うん。どうしたの」
「久しぶり……」
「うん。久しぶりだね」

視界がぼやけて、慌てて目を瞑る。
この涙は何なんだろう。
きっと、声を聞けたのが嬉しかったから。

「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」

気まずい沈黙が流れた。
受話器の奥から小さく息をつく声が聞こえる。

「聡美ちゃん」

みっともなく声が震える。

「なあに」
「聡美ちゃん、」
「うん」
「こないだ、ごめん」

手を、振り払った事。
怒ったような態度をとったこと。

「‥‥うん。いいよ」
「おん、本当ごめんな」
「何か、嫌だった?」

聡美ちゃんの事が嫌になるなんて絶対なくて、ただ俺は

「俺が嫌んなった」
「あはは、思春期だ」
「おん。なあ聡美ちゃん、今すっげえ寒い」
「えっ大丈夫?暖房つけなさいよ」
「今、外じゃから」
「こんな時間に?そりゃ寒いでしょうよ」

少し、笑ったような聡美ちゃんの声が嬉しい。もっと聴きたい。

「聡美ちゃんは、今家?」
「今会社だよ」
「あ、仕事中じゃった?」
「大丈夫、もう終わるとこだったから」
「そーか、なあ、聡美ちゃん」
「うん?」
「何か、喋って」
「ええ?何かって何を」
「何でもええから。‥声、もっと聴きたい」
「うーん?」

それから本当に前と変わらない調子で聡美ちゃんは喋り出した。
いつも飯食いながら話すような事を、楽しそうに話してくれて、俺は適当に相槌をうちながら聡美ちゃんの声を聴いた。

「ねえ、雅治君」
「ん?」
「次は雅治君が喋ってよ」
「え、何で」
「何でって、私だって聴きたいよ雅治君の声」
「‥‥‥わかった」

ゆっくりと瞑っていた目を開ければ冷たい空気が涙を乾かす。

「今星が見えるナリ」
「へえ。どこにいるの?」
「しなびた公園。アパートの近くの」
「危ないなあ、もう。痴漢とかいたらどうするの」
「いやどうもせんし、痴漢も俺にどうもせんじゃろ」
「そうかな」
「おん。聡美ちゃん、適当に喋るのって難しいな」
「私も難しかったって」
「おん」

暫くお互いに無言で、でもさっきみたいな気まずい沈黙じゃなかった。

「聡美ちゃん」
「んー?」
「元気?」
「そこそこね。雅治君は?」
「俺も、そこそこ」
「そっか」
「聡美ちゃん」
「ん?」
「好きじゃ」




言うつもりじゃなかったんだ。別の何かを言うつもりだったんだ。
それなのに口が勝手に動いて、まるで溢れるかのように、ポロッと好きじゃ、と。

「聡美ちゃん」
「‥‥うん」
「大好き」
「うん」
「ほんと、好いとう」
「うん、」

ああ、俺はずっとこれを言いたかった。
言いたくて言いたくて仕方なかった。
妙にすっきりとして、落ち着いた気持ちになった。

「雅治君」
「ん、」
「雅治君」
「なに」
「私も雅治君の事大好きだよ」

その次に来る言葉を、俺は知っていた。

「でも、ごめんね」

この人は絶対に間違えないから。
16歳の俺と23歳の彼女が、好き合う事がいけない事だってことを、聡美ちゃんは誰よりも知っているから。

「謝らんで」
「‥‥うん」
「ありがとな」
「うん」
「聡美ちゃ」
『うおっ、何、中谷まだ居たの!?って悪りい電話中だった』
「あ、」

聡美ちゃんの名前を呼び掛けた所で受話器越しに同僚らしき男の声が聞こえた。

「聡美ちゃん、じゃあな」
「あ、うん。じゃあね。風邪引かないでね、ご飯もちゃんと食べて、たまには湯船に浸かるんだよ?あと手洗いうがいも、」
「聡美ちゃん、ありがと」


そう言って俺から電話を切った。
最後まで甲斐甲斐しい聡美ちゃんが、面白い。
帰ろう。寒いし。
それでたまには湯船に湯をはろう。
気が向いたらカロリーメイトを食って、寝て、また明日学校に行こう。

立ち上がって公園を出た所で、ズキリと胸が痛んだけど、大丈夫だ。
別に死にはしない。

半ば駆け足でアパートまで急ぐ。

「あ。」

(俺、失恋初めて。)

初めての失恋は、何だか無性に泣きたくなるような、清々しいような、でも確かに痛みを感じる、可笑しなものだった。




◇◇◇


電話が切れた後も、暫くツー、ツーと鳴る音を聴いていた。

ゆっくりと手の甲で涙を拭う。

空気を読んだ高橋さんは忘れ物を取って直ぐに出て行った。
でも確かに目が合ったから、泣いているのは見られただろう。

(明日、どうやってごまかそう……)

何だか最近泣いてばかりだ。
涙腺がどうにかなってるんじゃないだろうか。

『聡美ちゃん』

電話越しの、私の名前を呼ぶ雅治君の声を思い出す。

(ほんっとうに、好きだなあ……)

止まり掛けていた涙がまた溢れる。
拭った手の甲が冷たい。

(好き、雅治君、好き)

これで良かった。正解。大丈夫。
嗚咽を漏らしながら、誰もいない職場で、私は涙が止まるのをじっと待った。

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