オリジナル短編集 | ナノ


桜の君(レオナルド/ハイスクール) @

体に刻まれる鼓動の音が、少しずつその速度を早めていく。ペダルをこぐ度に、長い間油をささなかったせいですっかり錆び付いてしまった車体が、小さく軋む。頬に伝う汗は陽射しと同じかそれ以上に熱く、レオナルドは思わずゴクリと固唾を飲んだ。目線の先のまっさらな車線はわずかに揺れる。視界いっぱいに広がる空は、近い未来に彼が瞳に宿す青よりずっと優しい色をしていた。

「がんばれ、レオ!この坂越えたら、もうすぐそこだよ!」
「ぐぬおおお…!」

3月下旬。初夏に近い平均気温を誇ったその某日、レオナルドと彼の自転車の後ろに乗った少女は、春風の中でとある木の下を目指していた。



レオナルド・ウォッチには、気になる女の子がいた。

ハイスクールの2年生だし、それくらいはいて当たり前。でもまあ、好きだとか告白したいとか交際したいとか、そんなんじゃない。ある日突然、彼女はレオナルドの中で、放っておけない存在になったのだ。

彼女は交換留学生で、ここらでは珍しい日本人だった。たったそれだけで周りからの好奇の目に晒されていたから、レオナルドも最初は野次馬と同じように遠巻きに珍しの君を見物していた。口数の少なそうな同級生。クラスも違うし、きっと話すことはないだろう。そんな風に思っていたけれど。

放課後、水泳部がいなくなった冬のプール。むわりと生ぬるい風がうねる室内のそこに、彼女がひとり佇んでいたのを、レポートを提出するために体育教官室に向かっていたレオナルドはみかけた。素足をぬるい水面につうっとつけて、なにやらそこにうつる自分を見つめている。外では雪がちらちらと降り始めていて、彼女のいる向こうにある外をのぞむ窓は薄ぼんやりと白くなっていた。

糸目だが目はいいレオナルドは、何をしているんだろう、あの子は水泳部だったっけ?と室内の窓越しに首をかしげた。俯いているせいで黒髪がさらりと流れていて、彼女が本当に水面を見ているのか、よくわからなかった。が、その髪の束の隙間からのぞいた小さな唇が、なにやら小さく動いている。

『さみしい』

慣れない英語でか細く、それでもはっきりわかる悲しさをもって、彼女の唇はそう震えた。その時からだった。いじめられっ子を庇ったり、どこかで誰かが1人にならないように守ったり。自分の為にはならないのにそんなことばっかりして、と笑う足の悪い妹を支え続けてきたトータスナイトの中で、彼女はただの交換留学生ではなくなったのだった。



「…レオ」
「っ、え"?…はぁ、きっつ…」

時は現在に戻って、レオナルドはその女の子…エリを乗せて、とある目的地に向かうための最後の坂を登っていた。冬の室内プールではじめて言葉を交わしてから、はや4ヶ月。あっという間に時は過ぎ、レオナルドとエリはすっかり親しい友人になっていた。いくらか冷やかしの声をもらったこともあったが、それよりもエリの笑みから寂しさが消えていくことの方が嬉しくて、レオナルドは機会がある度に彼女の元に向かっていた。

レオのおかげか、元からよく吸収するタイプだったのか、エリはしばらくしないうちに卒なく英語を話せるようになった。それからは2人でいろんな話をして、時にはこんな風にレオナルドの自転車に乗ってどこかに出かけたりしていた。

3月下旬。切り裂くような寒波は去り、それと入れ違いでやってきた猛烈な暑さが乾いた車線に照りついていた。最後の踏ん張り、と足に力を入れてペダルを踏み込んだレオナルドの後ろから、エリが名前を呼んだ。

「私ね、」
「…」
「…今月で」
「…」
「帰るんだ、日本」

エリが冬のプールの時と同じくらいか細い声でそう言うから、レオナルドは聞こえないフリをしてペダルを漕ぎ続けた。一瞬だけ車体が水平になり、静止したように数メートル動いてから、今度は逆向きの角度に上げていく。

「色々…ありがとう、レオ」
「…つかまって!坂!」
「え!?わっ…」

限界まで漕ぎ続けていたせいで、ペダルにかけていた足は力を失い、その代わりに両手に力を込めてブレーキを握った。けれどそれと同時に驚いたエリが後ろからレオナルドの腰に手を回したせいで、思わず両手の力が抜けてしまった。

「うわっ、わーっ!!」
「レオ!ブレーキ!ブレーキ!!」
「まっ、ちょ…ぶ、あっはっは!!」
「ちょっと!?笑ってる場合じゃな…わっ、はやいはやいはやい!」

前髪をかきあげる突風はびっくりするくらい心地よくて、珍しくあたふたするエリがおかしくて。レオナルドは気付かぬうちに、栓が抜けたように笑い始めてしまっていた。坂を下れば目的地はすぐそこ。そこに何があるか、レオナルドは知らない。エリが「レオに見せたい」と言って無理やり連れ出したのだ。この地がレオナルドの地元だから土地勘があるのは自分の方だとばかり思っていたけれど、エリが教える方に何か特別なものがあったか、レオナルドには見当もつかなかった。この急すぎる上りと下りの坂が苦手だったから、近寄らなかった…というのもあるかもしれない。
下り坂の角度も緩やかになり、車輪の回転速度も落ちてきた。シャツにしわをつくるくらい強い力でしがみついてくるエリの腕の温度も上がっている気がして、涼しい突風がおさまった後のレオナルドの頬は、なんとなく熱くなっていた。

「…はぁ…っあ、そこ!右ね」
「う、うん」

キシ、キシ。

あまり良い自転車ではなかったし、しばらく油もさしてないしですっかり錆び付いた音が漏れでるペダルをぐっと踏んで、坂のすぐ下にあった交差点を右に曲がる。背後からふぅ、と息を吐くのが聞こえたと思った次の瞬間、レオナルドの腰に回していた腕から力が抜け、堪えられない、というようにエリの笑い声が溢れ出した。

「ふは、はははは!っも〜レオ、最高だよ!」
「なんだよ、さっきはギャーギャー言ってたクセに」
「ほんとに怖かったんだから!久しぶりにヒヤヒヤした!それがおっかしくて…あっはは!ははは!」

エリは笑いながら、そこは左、その道入って、とレオナルドに指示を飛ばした。段々進む道は細くなっていき、レオナルドは一度も入ったことがない路地を右に曲がったとき、エリは自転車からストンと降りて走り出した。もうだいぶゆっくり漕いでいたから、彼女はあっという間にレオナルド自身を追い越していく。

その背中を、もう二度と見ることがないかもしれない、とか。

「レオ!レーオ!ここだよ!」

彼女が走って行った先には、小さな公園があった。

「…」
「何の木か、わかるよね」
「…桜?」
「そう!」

エリはくるくると回りながら、彼女の倍くらいはある木の幹に抱きついた。その木は枝いっぱいに薄紅色をつける桜の木。小さな公園の隅でひっそりと、でも存在感を持って佇んでいた。
公園の周りには、何も無い。あるのはだだっ広いトウモロコシ畑だけだったが、種をまいて間もない今は春。かなりと遠くまで緑の草原が広がっている。

「…すげー…俺、全然知らなかった」
「でしょ。この公園には誰も来ないもん」

先程からゆるく吹く風が、満開の桜を少しずつ散らしていく。ひらひらと舞いながら乾いた地面に落ちていく花びらを捕まえようと、エリは飛んだりはねたりしながら手を伸ばしている。その顔はとても嬉しそうで楽しそうで、でもちょっとだけ、悲しそうで。

「ずっと咲くのを待ってたんだ。満開になったら一番に、レオに見せてあげたかった」
「その、なんていうか…びっくりした」
「あはは」

自転車を道路の脇にとめて、レオナルドは公園の入口に立った。相変わらず3月とは思えない暑さだが、坂をのぼっていた時よりはいくらか涼しい気がする。エリが桜の木の下で手招きをしている。

「エリ」
「?…なに?」
「君はもうどこでだって、大丈夫だよ」
「…レオ?」
「日本に戻っても、やっていける」
「…」
「俺が保証するよ…こちらこそ、ありがとう」
「レオ!」

ばし!と音がして自らの手を見つめると、そこはエリの手によって繋がれていた。いつの間にやらレオナルドの目の前にやってきていたエリは、眉を寄せて今までで一番辛そうな顔をして、少しだけ背が高いレオナルドを見上げた。

「…ごめん。ちゃんとお別れ、言うべきだった」
「うん」
「でも…でも、嫌だったの。レオのおかげで、こっちにいることが楽しくなった所だったのに」
「…」
「現実逃避じゃないけど、言ったら…全部終わっちゃう気がして」
「…帰るの?」
「…うん」

留学生なんて、そんなもんだ。長くても1年くらいいたら、母国に帰っていく。エリは9月にやってきて、向こうで進級するために早ければ春には帰る。知らなかった訳じゃない。聞き出そうとしなかっただけ。握られた手から、じわ、と熱が伝う。

「怒ってる?」
「怒ってない」
「…っ、必ず、」
「戻っては、来れないよね。…わかってる」
「…レオ…」
「…さっき言ったこと、嘘じゃないよ。エリはもう大丈夫だ。どこでだって」
「レオ、レオ…」
「嬉しかった。桜、見せてくれて」
「うっ…ううう〜」

汗ばんできた手をもっと強く握って、エリはついに泣き出してしまった。ぼろっと瞳から落ちた涙が、すっと地面に落ちる。あいていたもう片方の腕をエリの背にまわして、極力優しく、ゆっくりと抱き寄せた。嗚咽混じりに涙を流し続けていたエリは少しだけびっくりした顔をして、レオナルドの肩に顔をくっつけてまた泣き出した。
ゆるい風だけではもうどうにもならないくらい熱い。しかし、こういうシチュエーションには全く慣れていないはずなのに、なんだか心は落ち着いていて、不思議な気持ちになる。

今だったら、言えるかもしれない。


「絶対、は無理かもしれないけど。またこっちに来ることがあるなら」

冬。プールで『さみしい』と、そう言った。

「俺は多分、ずっとここにいるからさ」

地元の人間だって知らないような場所で、ずっと一人で、桜が咲くのを待っていた。

「会いに来てよ」

満開になったら一番に見せたい、と。


その瞬間。強い強い、風が吹いた。桜の木の枝はぶわりと浮き、吹雪のように花びらが散る。視界は薄紅色に染まり、ザザザ、と風が木を揺らした。


「好きだよ、エリ」

だからまた、会いに来て。



これはまだ、紐育にヘルサレムズロットと呼ばれる異界都市が生まれる、少し前のお話。
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