光櫂



路地裏の猫と同設定。
時系列は「眠るその人に手を伸ばす」後の話。





「光定」
「うん?」
「見ろ、雨が降っている」
「うん、そうだね?」
「……」
窓の外を指差しながら僕にそれだけ言うと、櫂くんは再び外の景色に視線を戻してしまった。ガラス窓に手をついて立ち尽くすその背中を、僕はぽかんと口を開けて見つめる。
(雨が珍しいのかな?)
そんな風にも考えたけれど、彼と出会ったのが雨の日だったことを、僕は忘れもしない。
濡れた世界の中でまっすぐに僕を見つめていた翠の瞳。その美しさ。そして儚さを。忘れられるわけがなかった。
しかし、それならば一体どうしたのだろうと、考えてはみたものの、やはり櫂くんの少ない言葉からでは真意までは汲み取れなかった。もちろん、表情に変化もない。
櫂くんは、まるで雨音を一つも聞き逃すまいとするように、ピンとまっすぐに猫耳を立てて一心に外を見つめていた。そんな櫂くんの真剣な眼差しを見ては、邪魔なんてとてもじゃないけどできなくて、僕はそれ以上言及はせずに手元の本に視線を落とした。


 ***


「すっかり読み耽ってしまった……」
最後のあとがきまできっちり読み込み、背表紙を閉じてから小さく伸びをする。
図書館で、まだ読んだことのないローマ史に関する書籍を見つけたときには、心躍ったものだった。
週末に一気に読もうとこうして借りてきたのだが、なかなかこれも、面白い切り口で書かれていて実に興味深かった。つい、こうして時間も忘れて読み耽ってしまうくらいには、僕の知識欲は刺激された。
外では未だにしとしとと雨が降り続いており、僕はその雨音を聞きながらテーブルの上に本を置いた。
「雨……」
そして、はたと思い出す。
「櫂、くん?」
そこに、櫂くんの姿が見当たらないのだ。
つい先ほど……というには時間が経ちすぎてはいるが、窓辺に立って外を眺めていた櫂くんは、忽然と姿を消していた。
ぐるりと部屋を見回したが、少なくともここにはいないようで、僕はソファーから立ち上がると廊下に出た。
「櫂くん!」
キッチン、浴室、トイレから押し入れまで、あらゆるところを探したけれど、櫂くんの姿を見つけることはついぞできなかった。
ひとつ、またひとつと、探す場所が減るにつれ、僕の胸騒ぎは大きくなっていく。
「どうしよう……」
押し寄せる不安に、心臓が早鐘を打つ。ここまで見つからないとなると、もう残る選択肢は、一つしかない。
「まさか、外に……?」
櫂くんはまだ、一人で外に出たことはない。
無論、僕と一緒に出たことなら何度かあるが、それでも片手で数えられる程度だ。
それも、近所のスーパーに買い物に行ったり、カードショップに行ったりしたくらいで、つまるところ彼は、外の世界をほとんど知らない。記憶をなくしているのだから、尚更だろう。
「今までは、こんなことなかったのに……」
外出に関して、僕は櫂くんに特に禁止していたわけではない。それは今まで、彼が勝手に外に出るようなことがなかったから……なのだが、それに安心して、ちゃんと忠告しなかった僕の責任は重い。
外出だけの話ではない。何より櫂くんは、決して自分勝手な行動をするようなことがなかった。
つまり僕はそれに甘えて、無意識のうちに彼の「飼育」を放棄していたのだ。

『責任を持ってキミを飼うよ』

そう、彼に誓ったはずなのに。



「探しに行かないと!」
とにかく、このままぐずぐずしているわけにはいかない。
もし本当に外に出てしまったのなら、一刻も早く彼を見つけなければならない。
この雨の中、一体なぜ、そしてどこへ行ったのか、正直見当もつかない。とにかく虱潰しに探していくしかないと、僕は靴を引っかけると、傘を掴んで扉に手を伸ばした。
「!?」
そのとき、開けようとした扉が逆に開かれて、僕の心臓が飛び跳ねる。
「――櫂くん!?」
驚いて手を引っ込めた僕の目の前には、まさしく今探し求めていた当人が、こちらも目を丸くして立っていた。
全身ずぶ濡れで、亜麻色の髪の毛先からはぽたぽたと雫が滴り落ちている。
「みつさ……」
「っ、どこに行ってたんだ!?」
気づけば僕は、びしょびしょに濡れた櫂くんの肩を掴んで怒鳴っていた。
彼が見つかった安堵や、ひどい格好で帰ってきた動揺や心配――いろいろな感情が入り交じり、それが一気に爆発したのだ。じわりと、目頭まで熱くなる。
「っ!」
そんな僕の剣幕に、櫂くんはびくりと体を震わせて、それから少し怯えた顔をした。濡れた猫耳がしゅんと項垂れ、翠の瞳は当惑に揺れる。
「あ……。ご、ごめん……」
「いや……。勝手に出ていって、すまなかった……」
すっかり萎縮してしまった櫂くんの姿に、僕の頭は急速に冷えていった。
ついカッとなってしまった自分に、激しく後悔する。そんなことよりも、僕にはまずしなければならないことがあったはずなのに。
とはいえ、やってしまったことをなかったことにすることなんてできないのだから、後悔したところでどうしようもない。
「とにかく、早く拭かなくちゃいけないね。今タオルを持ってくるから、ちょっと待ってて!」
「……あぁ」
僕は捲し立てるように言い、小さく頷いた櫂くんに背を向けた。
「……」
咎められるべきは、櫂くんではなく自分の方だ。
やはり、僕はあのとき、櫂くんにきちんと言及すべきだったのだ。そうでなくても、櫂くんのことを放置して、すっかり本に没頭してしまうなんて言語道断である。
彼の飼い主になるという自覚も、彼と共に暮すという責任も、僕には全然足りなかったのだ。
(僕は、飼い主失格だ)
次から次へと押し寄せる自責の念に押しつぶされそうになりながら、僕は足早に廊下を駆けた。


 ***


ざっと体を拭いた後、櫂くんをリビングに上げると、濡れてしまったシャツを脱がせる。
「うわぁ!? ぶるぶるしたらダメだよ櫂くん!!」
シャツを脱がせた途端、櫂くんがぶるぶると激しく頭を振るものだから、水滴があたりに飛び散り、その被害は僕にまで及んだ。
「っ、すまない……」
「ハハ、普段の風呂上がりと違って、ちょっと油断したね……」
ばつの悪そうな顔でこちらを見つめる櫂くんに、僕は苦笑しながら自身にかかった水を払う。それから、櫂くんをソファーに座るよう促したあと、上からふわりとバスタオルをかけてやった。
「それで、結局どこに行っていたんだい?」
そして、新しいタオルを手にソファーの後ろに立った僕は、櫂くんの髪をわしゃわしゃと拭きながら訊ねる。
「この前、お前が連れていってくれたカードショップに、行った」
「えぇ!? なんでまた……!?」
「大会……」
「え?」
「大会があるというから」
「……へ?」
櫂くんは恐る恐る、こちらの様子を窺うように零したのだった。
思いも寄らぬその言葉に、僕はつい間抜けな声を上げてしまう。
「もしかして、参加してきたの?」
「そうだが」
「この雨の中?」
「あぁ」
「えぇー……」
確かに、櫂くんがヴァンガードに興味を示してくれたあの日から、僕は彼に少しずつカードのやり方を教え、暇があれば一緒にファイトもするようになった。
しかし、まさか大会に参加したいと思うまでとは思わなかったし、勝手に出て行ってしまうほどの気持ちだったなんて思いも寄らなかったのだ。
確かに、僕とファイトする櫂くんはとても愉しそうで、一緒にやっている僕までそれに感化されてしまうくらいではあった。
普段の無口でクールな櫂くんとは、似ても似つかない生き生きとした顔でファイトする姿に、最初は驚いたりもした。
(実力の面でも、櫂くんの飲み込みの早さには、びっくりしたしね……)
僕だって、それなりに自分のファイトには自信がある。それでも、まだ始めて間もない櫂くんに苦戦を強いられるくらいなのだから、参ってしまうというものだ。
もちろん、そこがヴァンガードの面白さの一つでもあるのだけれど。
「心配をかけたことは、本当にすまないと思っている」
「それは……」
「だが安心しろ。こっちはちゃんと、完全ガードしてあるからな」
「?」
何を言い出すのかと思えば、櫂くんはびしょ濡れのシャツのポケットからデッキを取り出すと、得意げな顔でこちらを見て言った。
「……」
それにはもう、返す言葉が見つからなかった。
「ショップの店員が、どうしたらカードを湿気から守れるか教えてくれたんだ」
そんなことを教える前に、彼に傘をいうものを教えてあげて欲しかったのだが……そんなことを櫂くんに言ったところで仕方がないので、僕は大人しく口を噤む。
呆れを通り越して、なんだか可笑しくすらなってくる。
「もう、キミという人は……」
「光定?」
込み上げてくる笑いを押さえられずに、気付けば後ろからバスタオル越しに櫂くんの体を抱きしめていた。
きっと今、僕はとても変な顔をしているに違いない。その顔が櫂くんに見られないのが、幸いだと思った。
「み、つさ……」
突然のことに驚いたのか、背中越しに櫂くんの緊張が伝わってくる。けれど、優しく腕に力を込めれば、それも次第に溶けていくのがわかった。
「……謝らなきゃいけないのは、僕の方なんだ」
「?」
「責任をもってキミを飼うと約束したのに、その約束を破った……ごめん」
それに対する、櫂くんからの言葉はない。
僕の言葉の意味を、しっかりと受け取ってもらえたのかどうか、顔も見えないから確かめることも出来ないけれど。

代わりに持ち上げられた手が、優しく僕の頬を撫でた。

「これからは、勝手に出ていったりしないでくれると、安心なんだけどな……」
「……あぁ」

耳元で、小さく頷く櫂くんの声が響いた。




おわり










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