僕が欲しがれば、少しは素直になれるでしょう?




いつものように玄関の鍵を開けて中に入ると、扉の開く音に気づいたのか、櫂が部屋から顔を出した。
「レン?」
そして僕の姿を見留めると、その緑色の瞳を丸くして声を零す。
「櫂、ただいま」
しかし、僕がそう言って笑えば、櫂はすぐに呆れ顔になって、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらこちらに歩いてきた。
(櫂が驚くのも、まぁ、無理はないか……)
今朝方出て行ったばかりの僕がその日のうちに戻ってくるというのは、わりと珍しいことだと、自分でもわかっていた。
「はぁ……寒い」
しかし、僕にしてみればそんなことはどうでもいいことで。
それよりも、寒風にさらされて冷え切ったこの体を温めることの方が先決で、僕は目の前の櫂の体めがけて倒れ込んだ。
「!? おいっ!」
そんな僕の体を、櫂は咄嗟に抱き留めてくれる。
その腕から、体から、櫂の体温がじわじわと伝わってきて、僕はその温かさに、ほう、と息を吐いた。
そして、そのまま櫂の腰に両腕を回して、その細腰をぎゅっと抱き締める。
「はぁー」
「レン、寒い」
「えぇーひどい……。寒いのは僕の方なのに……」
頭上から降ってくる櫂の言葉に、僕は唇を尖らせた。ここまで来るのにずっと寒い思いをしてきたと言うのに、櫂はそれをちっともわかってくれないようだ。
「だから、暖めてください。ねぇ、櫂?」
言いながら、僕は櫂の胸にぐりぐりと顔を押しつけた。思い切り息を吸って、櫂の匂いを噛みしめながら、ゆっくりと吐く。
「はぁ」
もう随分と馴染んでしまったけれど、櫂の匂いは僕の心を穏やかにしてくれる、不思議な匂いだ。僕はこの匂いを嗅ぎたくて、こうしてここに帰ってくるのではないかと、そんな風にも思ってしまうほどに。
「とりあえず、早く上がれ」
それなのに櫂ときたら、相変わらず冷たい態度で、僕を突き放すのだ。
肩を掴まれて無理矢理引き剥がされた僕は、頬を膨らませて櫂を見上げたけれど、櫂は鋭い目つきで僕のことを見下ろすだけで、それ以上は何も言わない。
本当に容赦がないものだから、さすがに僕も苦笑するしかなくなってしまう。
(まぁ、そうでなくては、櫂ではないのかもしれないけど)
仕方がないから、僕は渋々靴を脱ぐと、部屋へと上がったのだった。


いつもながら、櫂の部屋には本当に必要最低限のものしか置かれていなくて、寂しい部屋だなぁと思う。
櫂は、ここにいつも一人でいて、寂しくはないのだろうか。僕以外にも、この部屋に招き入れる人はいるのだろうか。
そんな風に、いろいろ思うところはあるけれど、結局僕は、櫂のことを何も知らないのだった。知ろうと思えば、知ることなど容易いことではあるけれど、それでも僕は、知らなかった。
「あ。そうだ、これ……」
そこで僕は、ふと自分の右手に提げていた箱のことを思い出した。
櫂とのやりとりですっかり忘れてしまっていたけれど、潰れていたりしたらどうしようと、少し不安になる。
「何だ」
その小さな箱を櫂の目の前に差し出すと、櫂は訝しげな顔で箱と僕の顔とを交互に見た。
別に、そんなに怪しいものではないのだけれど、櫂の目には、一体どんな風に映っているんだろうと少しおかしくなる。
「ケーキですよ」
「ケーキ?」
そう答えを提示すれば、そんなに意外なものだったのか、櫂は目を丸くして聞き返してきた。
確かに、僕がケーキを持ってくることなんて初めてのことだし、少しくらい驚いても仕方のないことなのかもしれないけれど。
「たまに寄るカフェの店員さんから、頂いたんです。『レンくん、今日誕生日でしょ?』ってね」
「お前、今日が誕生日だったのか?」
櫂は再び、今度は先ほどの驚きとはまた少し違った様子で、そう聞き返した。
「一応、そういうことになりますね……。まぁ、僕もすっかり忘れていたのですが」
「……」
そう言って笑う僕を、櫂はじっと見つめてくる。
何か言いたげな、少し苛立っているような、そんな様子に、僕は少し引っかかった。
「でも、彼女に誕生日を教えた覚えなんて、ないのになぁ……」
しかし僕は、なんでもない素振りでそう呟いて、櫂に背を向けるとソファーに腰を下ろした。
もしかしたら、僕が忘れているだけで、彼女に話していたのかもしれない。どうでもいいことはすぐに忘れてしまうから、わりとそういうことも多かったりするし。
しかし、忘れているということはやはりどうでもいいことなので、僕は気にしないことにしていたのだけれど。
「……」
それでも、どうやら櫂には、そういうわけにもいかないようだった。
「ねぇ、櫂。ちょうど二つあるので、一緒に食べませんか?」
黙り込んでしまった櫂に、僕は努めていつも通り話しかけると、櫂はやはり何も言わずにキッチンへと姿を消した。


***


数分後、湯気の上るカップと、皿とフォークを二人分乗せたトレーを持って櫂が戻ってきた。
櫂は、僕の前に一人分の食器を置くと、向かいのソファーに腰かける。
「ふふっ」
櫂が座るか座らないかといううちに、僕は嬉々とケーキの箱を開け、中からケーキを取り出そうと手を伸ばす。箱に対して、二個でちょうどぴったりくらいのサイズのケーキは、取り出すのが少し難しくて、僕はもたついてしまう。
「レン、貸せ」
そんな僕の様子に、櫂は痺れを切らしたのか、そう言って横から手を出すと、取り出すのを手伝ってくれた。
大きな苺ののったショートケーキとザッハトルテ。それぞれ一つずつ皿に乗せた櫂は、好きな方を選べと言うので、僕はショートケーキの方を指差した。
「いただきます」
そう言ってフォークを取ると、僕はふわふわのクリームの上から、真っ直ぐフォークを突き刺した。それから、一口サイズに切ったケーキを口に運ぶと、ふんわりとした甘みが口いっぱいに広がって、思わず頬が緩んでしまう。
「レン、またこぼしてる」
舌鼓をうって酔いしれていると、櫂がそう指摘してきて、僕は櫂の方を見る。
そして、櫂の視線を追うようにして自分の胸元を見ると、見事にクリームが服に付着していてはっとする。
黒いシャツに白いクリームがよく映えているなぁなんて思いながら、僕はそのクリームを指で拭うと、そのまま口に入れた。
「……」
その指を咥えながら、僕は向かいで黙々とケーキを食べる櫂のほうを見つめる。隣の芝は青く見える、というわけでもないのだけれど、やっぱり気になってしまって、気になり始めたら目が離せなくなってしまった。
「櫂、そっちのケーキも、食べてみたいな」
僕が言えば、櫂は顔を上げて、僕の顔をじっと見つめて言った。
「全部やるよ」
「え?」
「お前の誕生日だろ」
予想外の櫂の言葉に驚いていると、櫂は僕の返事など待たずに、半分以上残っているケーキの皿を、こちらに差し出してきた。
「いいんです、一口食べられれば」
そう言って押し返せば、櫂はムキになっているのか、再び皿をこちらに寄せてくる。
(あぁ……本当に、仕方のない人ですね……)
皿を押す手から、その表情から、櫂の苛立ちをありありと受け取れてしまうからおかしくなる。
果たして櫂自身は、自分のその苛立ちに気づいているのだろうか。なぜ自分がそんなに苛立っているのか、その原因に……自分の気持ちに、気づいているのだろうか。
僕にはそれがとても気になって、他の何よりもそれを知ってみたいと思ってしまう。
「なら、櫂が食べさせてくれますか?」
「……は?」
「ね、櫂? ほら……あーん」
戸惑う櫂を無視して、僕は目を瞑ると口を開けた。
「レン!」
慌てた櫂の声が聞こえるけど、聞こえないふりをする。
櫂は今、どんな顔をしているんだろう。きっと、すごく戸惑って、困った顔をしているんだろうなと思うと、目を開けてしまいたくなるけれど、そこはぐっと我慢して待つ。
「……」
少しの間、静寂が続く。
それから、小さな物音がして、口の中にケーキが運ばれてきた。
僕はぱくりとそのケーキを含み、それから閉じていた目をゆっくりと開ける。
「ふふ……」
そうすれば、櫂の瞳とばっちりと目が合ったから、僕はにこりと目を細めた。
「……ふんっ」
ところが櫂ときたら、すぐにふいっと目を背けてしまうのだ。僕にはそれが少し寂しかったけれど、やっぱりおかしくて笑みが深くなる。
(そんなに恥ずかしがること、ないのに)
口の中で甘いチョコレートを溶かしながら、目を背けた櫂の顔が少し赤くなっているのを、僕は見つめていた。
「……そろそろ、離せよ……」
すると、僕がずっとフォークを口に咥えているのに痺れを切らしたのか、それとも照れ隠しなのか、櫂はぶっきらぼうに、ぼそりと言った。
「ごちそうさまでした」
その言葉を受けて僕は仕方なく口を離すと、櫂はすぐに手を引いた。
「!! レン!?」
しかし、僕はその手を逃すまいとがっしりと捕まえて、自分の方に引き寄せる。
「なっ……!?」
驚いた櫂が、声を上げてこちらを向く。僕を見つめるその顔には激しい動揺の色が滲んでいて、僕は少しぞくぞくとした。
「……櫂は。櫂は、どうしてそんなに苛立っているんです?」
「は?」
それは、櫂からしてみれば突拍子もない言葉だっただろうと思う。案の定櫂は、わけがわからないという顔で僕を見ている。
「櫂が僕の誕生日を知らなかったのは、仕方のないことじゃないですか。だって僕は、教えてなかったのだから」
そう言えば、言葉の意味に気づいた櫂はハッとして、それから眉根を寄せて顔を顰めた。
「……そんなんじゃ、ない」
櫂の言葉は歯切れが悪く、僕からも視線を逸らされる。
「そうですか? でも、僕がケーキを貰った話をしたときから、ずっと……。そう、ずっと、何か面白くなさそうな顔をしていました」
「そんなこと、ない!」
今度は、声を荒げてキッとこちらを睨み付けてきた。
こんな風に感情を露わにした櫂を見たのは、もしかしたら初めてかもしれなくて、僕は少し驚いたけれど、すぐに笑みが浮かんで口の端が上がる。
「もしかして、カフェの彼女に嫉妬でもしましたか?」
「……っ」
そう言えば、眉をつり上げていた櫂はぎゅっと唇を噛みしめて、悔しそうな顔をする。
「図星でしょ?」
そう言って僕は、掴んだ櫂の手首をさらにぐいっと引くと、櫂の唇に自分のそれを重ねてやった。
「……っ、レン!」
慌てて顔を引いた櫂の顔には、怒りやら羞恥やら戸惑いやら、いろいろなものが混ざっていて、僕はそれがすごく美しいと思った。
「櫂、もういいでしょう? 誕生日のことは、僕だって忘れていたことなんですから、気にしたって仕方のないことです」
櫂のことだから、そんなことでは納得のいかないことは承知で、僕は言う。
「だから……っ、それは違うと……」
「わかってます。……だから、こういうことで、どうですか……?」
そこで言葉を一端切ると、僕は櫂の耳元に顔を寄せて、言った。

「櫂を、僕にください」

その言葉に、櫂がハッとこちらを向いた。
目があった櫂の瞳は真ん丸と見開かれ、その美しい翡翠には僕の赤が映り込んでいた。



「……好きにしろ」



ほら。僕が欲しがれば、少しは素直になれるでしょう?









おわり
















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