路地裏の猫




ゆっくりと、僕は夢から浮上していく。
瞼に刺さる朝日が眩しくて、それから逃れるように布団をたぐり寄せようとしたけれど、その手が触れたものの感触に違和感を覚え、そこで思考が固まる。
明らかに、布団とは違うそれ。
絹のようなスルスルとした手触りは、一瞬シーツかとも思ったけれど、自分の手の温かさと同じくらいの熱と、少し固い凹凸は、やはり布団のそれとは違った。
「う、ん……」
僕は、まだ完全に覚醒しきらない頭でぼんやりとそれを撫でつける。
すると突然、その手をがっしりと掴まれて心臓が飛び跳ねた。
(――って、掴まれた!?)
そこで、僕の意識は急浮上する。

「うえええええええっ!?」

そして、ばっちりと開けた視界に映ったものに、僕は絶叫せざるをえなかったのだった。

 ***

簡潔に言うと、僕の隣に男が寝ていた。
それだけでも大事件だというのに、あろうことかその男は、一糸纏わぬ姿でそこにいた。
つまりは、僕が寝ぼけて撫でていたのは、この男の胸板だったというわけだ。
嘘だと思われてしまうかもしれない。信じたくなければ、それでも構わない。僕だって、できることなら嘘であってほしいと思っているくらいなんだから。
こうしている今も、本当はまだ夢の中なんじゃないかと、そう思うくらいには。

でも、本当の話なんだ。
現に今、男はベッドに腰掛けて、僕の貸したTシャツに袖を通している最中だった。

言っておくけれど、僕は一人暮らしで、同居人も居候人も、まして同棲相手もいない。男を連れ込んだ覚えなんて当然ないし、呼んだ覚えもない。
この男にしても、見る限り僕の知っている顔ではない。
くせっ毛なのか、外にはねた茶色の髪に、綺麗な緑色の瞳がとても印象的な男。少し大人びて見えるけれど、きっと僕とそんなに変わらない歳なんじゃないかと思う。
男にしては白い肌で、貸し与えた黒のTシャツとのコントラストが目に眩しいと思った。
まるで作られたかのように整ったその顔と体に、僕はほんの少し見とれてしまったのだけれど、今はそんなことに気を取られている場合ではなく。
「……」
正直なところ、今の僕はいろいろとショックが大きすぎて、うまく思考が回らずにいた。
だってそうだろう?朝目が覚めたら、見知らぬ男が隣に寝ていたのだから。しかも、全裸で。
「あっ」
じっと男を見つめていたら、ちょうど服を着終えた男が顔を上げて目が合い、僕はハッと我に返った。
狼狽する僕を、男は表情ひとつ変えずにまっすぐ見つめてくる。その瞳の深い緑に、僕は思わず息を飲んだ。
「き、キミは、一体何者……なのかな……?」
回らない頭で、それでもなんとか絞り出せたのは、そんなありがちな言葉で。
僕は恐る恐る、男に尋ねた。
「俺は、櫂トシキだ」
すると男は、ゆっくりと、形のよい唇を象らせて答える。
なんの疑問もないとでもいうように。
しかし男の答えは、答えになっているようななっていないようななんとも微妙なもので、僕は苦笑するしかなかった。
(櫂トシキ……彼の、名前だろうか)
本当のところは、僕が聞きたかったのはそういうことではなかった。
正体とか、なんでここにいるのかとか、そういうことを聞きたかったのだけれど、うまく伝わらなかったのなら僕の責任かもしれないし、仕方がないのだろうか。
「えぇっと……」
しかし、このあと一体どうしたらいいのだろうかと、僕は困り果ててしまった。
どうやって尋ねればこの状況を打開できるのだろうかと頭を悩ませるけれど、冷静に物事を考えられるほど、やはりまだ僕の頭は状況に追いつけ切れていなかった。
(それに、問題はそれだけじゃないしなぁ……)
実は、僕は今まで、一つ見ないふりをしていたものがある。
正直、それについてはもうずっと見ないふりをしておきたいくらいなのだが、やはり気になってしかたがないので、触れておくべきなのかもしれない。
いや、本当ならば、触れるべきなのだろう。
「……」
僕は、彼の瞳から視線を移すと、もう一度彼を上から下まで見る。
改めて見て言うけれど、彼は普通ではない。

なぜなら、彼の頭とお尻には、奇妙な動く物体がくっついていた。

(猫の耳と、尻尾だよね……これ)
彼の正体がわからない理由はまさにそこにあり、およそ人間にはついていないはずのそれらを目の当たりにして、はたして彼のことを人と呼んでいいのかさえ、僕は計りかねていたのだ。
(それとも、コスプレ?……って、やつなのかなぁ……)
そうだとしたらそれはそれで奇妙ではあるが、むしろコスプレであったほうが、どれほどよかったかとも思う。
なぜなら、僕にはそれがコスプレではないという確信があったからだ。

僕は、彼の耳と尻尾に、見覚えがあった。

「えっと……櫂くん? でいいのかな? 僕が聞きたいのは、そういうことじゃないんだ……」
「それなら、お前は何が聞きたいんだ?」
櫂くんは、少し眉を顰めて僕を見上げて、言った。力強い翠の瞳が僕を射て、僕はたじろぎそうになる。
ここはもう、回りくどいことを言ってないで、ストレートにぶつけたほうがいいのかもしれない。
僕には、言葉を選んでいる余裕なんてもうなかったから。
「もしかしてキミは、昨日の猫なのかな?」
言い切り、僕はごくりと息を飲む。

「あぁ。俺は、昨日お前に路地裏で拾われた、猫だ」

(やっぱりーーーーーーーーー!!)

奇しくも、僕の予感は的中してしまった。
例えば当たったのがトリプルレアのカードだったのなら、僕は大喜びしていたのだろうけれど、こんなことが当たったって、少しも嬉しくなんかない。
彼が頭を上下させたのと同時に頭上の二つの耳がひくりと動いて、それが本物なのだという現実をまざまざと見せつけられ、僕は目眩を覚える。
「……あぁ……どうしてこんなことに……」
僕はもう、一気に重くなった頭を両手で抱えるしかなかった。


 ***


確かに僕は、昨日猫を拾った。
降りしきる雨の中、路地裏から顔を覗かせていた、一匹の黒猫。
黒猫なんて縁起が悪いと、そう思われてしまうのかもしれないけど、なぜだかそのときの僕は、その猫から目を離すことができなかった。
ずぶ濡れでどろどろなのに、僕を見つめるその緑色の瞳は、とても力強く、光を放っていて。
僕はそれに惹かれるように、気づいたら手を伸ばしていた。
その猫に、何か訴えかけられているような気がしたのだと言ったら、笑われてしまうだろうか。

(でも、あのときの彼は――)

たとえば仮に、彼がその黒猫であると認めたとしよう。
そうだとして、しかし理解できないのは、彼がなぜ今、こんな姿をしているのかということで。
「キミは、猫? なんだよね? 少なくとも昨日は、猫……だったわけだ。でも、それならどうして、そんな姿になってしまったんだい……?」
今の彼は、どう見ても猫……より、人間の姿に近い。というか、人間そのままと言ってもいい。耳と尻尾という猫の名残は残っているけれど、体のほとんどは、人間の僕となんら変わりのない様相をしているのだから。
「わからない」
しかし、僕の質問に対し、考える素振りも見せずに櫂くんは答えるものだから、僕は少し気が遠くなってしまった。
「わからないって……」
「俺にも、よくわからないんだ」
そう言った櫂くんが、初めてその表情を曇らせたものだから、僕は少し、不安を煽られる。
「キミは、誰かに飼われていたのかな?」
「わからない」
「なんであんなところにいたの?」
「わからない」
「もとの姿に戻る方法は?」
「わからない」
「……」

……どうやら彼は、自分の名前以外のことは、何もわからないらしい。

「……僕は、一体どうしたらいいんだろう……」
こうなってしまうと、僕はすっかり途方に暮れてしまう。
彼の正体が猫であるのなら、元に戻ることが先決なのだろう。しかし本人にも、その方法はわからないらしい。
放っておけば、いつかコロッと戻ってしまうものなのだろうか。
一晩にして突然猫から人の姿に変わってしまったように、逆に、人から猫の姿に変わるということも、あるのだろうか。
そうだとしたら、それは一体いつなのか。
それまで彼は、そして僕は、どうしたらいいのだろうか――

「俺がいたら、迷惑か?」

「えっ」
僕がすっかり黙り込んでしまったからだろうか、櫂くんがそう訊ねてきたものだから、僕はハッと顔を上げる。
櫂くんを見れば、彼はやはりまっすぐに僕を見つめていて、僕は少し緊張してしまう。
彼が何を考えているのか、わからない。
もしかして、僕は試されているのだろうか。それとも、信用されているのだろうか。それも、わからない。
ただ、澄んだ翠の双眸が、困惑する僕の顔を映し出すだけで。
「迷惑、というか……」
僕はそれ以上なんて言ったらいいのかわからなくて、口を噤んでしまった。
そうすれば、たちまち部屋には静寂が流れて。

「……そうか」

しかしすぐに、それは破られてしまった。櫂くんはそれだけ呟いてふっと瞼を閉じると、静かに立ち上がった。
「……最後まで責任をもてないのなら、最初から拾ったりしないで、ほしかったな……」
そして、息を吐くようにしてぽつりと言うと、少し顔を俯かせた。
その声が少しだけ震えていたことに、僕は気づいて、後悔する。
伏せられた瞼が揺れていて、僕の胸がつきりと痛む。
「もう、二度と会うこともないだろう」
それから櫂くんは、僕の横をすり抜けようと、歩を進めた。
すっと風が吹き抜けるように、視界の端を過ぎる白い影。
「……」
あの路地裏で、半ば衝動的に拾ってきてしまった黒猫。
あのとき、あの路地裏で、僕を見据えたその翠の揺らめきが、先ほどの彼のそれと重なって――そして気づく。

「ま、待って!」

気づけば僕は、ひっしと彼の手首を掴んでいた。
その手首の細さには少し驚いたけれど、今はそんなことはどうでもいい。
「なんだ」
振り向いた彼の瞳に、僕の顔が映る。
「キミはここを出て、どこか行くあてがあるの?」
「……」
僕が尋ねると、櫂くんはふいと目を逸らして、
「ない」
そう、小さく答えた。
寂しげに揺れる翠が、僕に確信を与える。
「ここにいて、いいんだよ」
「え?」
僕の言葉に、弾かれるようにこちらを向いた櫂くんは、驚いたようにその瞳を見開いた。



「僕が責任をもって、キミを飼うよ」



こうして、僕と彼との生活がはじまった。








おわり
















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