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on your mark9

 携帯電話にある史人の写真を眺めた後、先日撮影したばかりの動画を再生した。直広とともに歌を口ずさみ、誕生日ケーキの上にある蝋燭の火を吹き消した史人の笑い声が流れてくる。電気がつき、直広がケーキを切り分けると、史人は、「いただきます」と舌足らずな言葉をつむぎながら、おいしそうにケーキを頬張っていた。
 隣で眠っている史人の頭をなでて、直広は仰向けになる。今夜は夜勤がなかったが、疲れ過ぎているのか、どうにも眠ることができなかった。考えてしまうのは、将来のことや、史人の誕生日以来、帰ってこない健史のことだ。給料日までにカードを返してもらわないと、引き出しができない。
 何度も携帯電話へかけているが、期日までに支払わなかったのか、利用停止中のようだった。直広はうたた寝しては目を覚ます状態で、明け方近くになり、ようやく眠りに落ちる。この辺りで新聞を取っている家は少ないものの、新聞配達員の自転車が走る音はよく聞こえた。
 玄関の扉に物が当たったような音がして、直広ははっと目を開く。直広の家はもちろん新聞など取っていない。健史だと思い、直広は起き上がった。玄関扉の刷りガラス越しに彼の背中が見える。
「健史?」
 鍵を開けて、扉を開けると、健史が仰向けに倒れ込んできた。
「た、健史!」
 直広は健史の腫れ上がった顔に驚き、その場にひざをつく。
「どうした? たけ……大丈夫か?」
 衣服は血と泥で汚れている。健史は血のついた指先で、直広の服をつかんだ。胸元に血がついたが、気にしていられない。口を開き、何か話そうとしていた。その時になって、直広はようやく、彼の黒いTシャツが濡れていることに気づいた。手で触れると、血だと分かる。息を飲み、Tシャツをめくると、左脇腹から血があふれている。
「う、うそ、どうしよ、たけ、たけっ」
 止血、という言葉が思い浮かぶが、止血するために何をすればいいのか分からない。健史の手は直広の服を握ったままで、彼は弱々しい呼吸を繰り返していた。
「救急車」
 直広は携帯電話を取りに行こうとした。だが、健史がつかんでいる服を離さない。彼は口を開き、「いいから」と言った。殴打された顔は腫れ、目尻から涙が流れていく。折れた歯や耳から流れている血を見れば、ひどい暴行を受けたことは明白だった。
「ろー、れ、い、かい、の、がく、にげっ」
 健史はせき込み、喉に詰まった血で苦しそうにもがいた。直広は泣きながら、彼の上半身を起こし、血を吐かせる。
「しゃべらないで。すぐ、病院、行こう。大丈夫、俺がついてる」
 大丈夫、と言いながらも、健史のケガを見れば、もう間に合わないかもしれないと思った。直広は涙を拭い、携帯電話を取りに行く。また仰向けに倒れてしまった健史を起こそうと、直広はしゃがむ。
「なおにい……」
 久しぶりにそう呼ばれた。視界がにじんでいく。
「しゃべるなって、絶対、助けるから」
 左手で健史の背中を支え、右手で携帯電話を操作した。ごめん、という言葉が聞こえた後、健史の上半身が直広の体へ傾き、携帯電話が落ちる。
「たけふ、み?」
 健史の体を抱き締め、彼の頬をさする。だが、彼は目を開けない。うなるような音が喉の奥から漏れた。直広は彼を抱き、謝罪の言葉を口にする。自分のせいだと思った。
 母親の時もそうだった。朝から調子が悪いと言っていたのに、病院へ行ってとは言えなかった。彼女も行きたいとは言わなかったが、金さえあれば、もしかしたらまだ生きていたかもしれない。
 健史がトラブルを抱えていることには気づいていた。こんなことになるまで、放置してしまったのは自分だ。日々の忙しさと疲れから、彼の話を聞いてやれなかった。小学校でも中学校でも、貧しさのせいで嫌な思いをしていたに違いない。素行のよくない人間と付き合いだした時に、もっとちゃんと踏み込んでいけばよかった。直広の胸を後悔が襲う。
「パパ……」
 背中に史人の手が当たった。直広は右手で史人を引き寄せ、彼の頭へ顔を寄せる。
「あや、どうしよう、俺のせいで……」
 涙を拭いもせず、直広はたった二人だけの家族を両手に抱く。史人は顔の腫れ上がった健史を見ても怖がることはなかった。
「たけ、ただいま?」
「うん……たけ、やっと帰ってきたよ」
 死という概念を史人へ伝えることができない。直広は茫然とした状態で、しばらく泣き続けた。

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