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「あや、痛いところは?」
 史人は右手で左の上腕部を押さえる。直広が長袖のTシャツを捲り上げると、そこには痛々しい青あざができていた。
「史人、えらいね。よく頑張ったね」
 直広はせき込みそうになり、口元を押さえた。血のついた手のひらを自分のジーンズパンツで拭い、史人の服を脱がせる。
「ほかに痛いところがないか、確認しようね」
 まだ泣いている史人に優しく言葉をかけながら、彼の背中や足を確認する。左腕の青あざ以外は特に何もなかった。湿布はないものの、熱が出た時のために、冷却ジェルシートを用意していた。直広は史人へ新しいおむつをはかせた後、救急箱を出すために立ち上がり、ふらついてその場へ倒れた。
「パパ!」
 史人の足が見える。泣きやんでいた彼は、また嗚咽を漏らし始めた。
「だいじょうぶ、ちょっと、まってね」
 体に力が入らない。直広は押し入れまで這うようにして、体を動かす。
「あ、ばあば! ばあば!」
 史人の声と同時に、鈴木の声が聞こえた。
「直広、あんた、どうした?」
 直広は顔を上げて、玄関のほうを向く。血相を変えた鈴木は、杖を置き、ひざをついて、こちらへ来ようとしていた。
「すみません、うるさくて」
「何、言ってるんだい。あんた、血が出てるよ」
 かけ声とともに立ち上がり、家の中へ入ってきた鈴木は、そばまで来ると、史人の腕にも気づいた。
「あの馬鹿か?」
「……うるさくて、本当にすみません」
 鈴木は、史人はともかく、直広は病院で診てもらったほうがいいと言った。彼女に頼んで、押し入れにある救急箱を出してもらう。直広は何とか起き上がり、史人の腕の手当てをした。
「大丈夫ですよ。口の中、切っちゃって、血が出てるだけです。あや、おいで」
 服を着せて腕に抱いてやると、史人は甘えるように胸へ顔を当て、目を閉じた。
「あんまりひどいなら、警察、呼んでやろうか?」
 直広は首を横に振る。
「家族の問題だから、警察の人も迷惑するだけですよ」
 史人の体温を感じ、直広は背中をなでていく。
「今日はお風呂、何時頃ですか?」
 鈴木に銭湯へ行く時間を確認して、ケーキを届ける時間を言った。足腰が弱っているにもかかわらず、ここまで様子を見にきてくれたことへの礼を述べ、玄関先まで彼女を見送る。扉が閉まった後、直広は眠っている史人を抱き締めたまま、その場に座り込み、声を殺して泣いた。
 本当は史人のために料理を作ろうと思っていた。健史の好物でもある鳥のから揚げだ。もし、健史が帰ってきたら、三人で食事できるかもしれないと考えていた自分がおかしい。おもちゃ売り場で欲しいものを我慢していた史人の姿が、健史と重なる。
「俺の、努力が足りないのかな……」
 寂しかったから、と言った彼女と、夜勤のたびに、「パパ、いて、ここ、いて」と泣く史人の言葉が響く。
 泣き続けると、頭が痛くなった。体もだるく、熱っぽい。だが、病院へ行けば、金がかかり、仕事は休んだ分だけ収入が減る。直広は和室へ戻り、史人を寝かせていた布団を広げ直す。彼をそこへ寝かせて、台所で顔を洗った。スタンドミラーで確認すると、頬やくちびるの端が腫れていたが、気になるほどの腫れ方ではない。
 直広は沈みそうになる気持ちを叱咤した。今日は史人のための日であり、次に彼が目覚めた時には、何もなかったように振舞うべきだと思った。冷蔵庫から夕食の材料を取り出す。
 包丁を握った時、健史がポーチも持って行っていることに気づき、手が震えた。彼は、「貯金のほうでいいや」と言っていた。学資保険の解約は、本人確認もあって簡単ではないはずだ。
 直広はそのことを頭から追い出すため、手を動かすことに没頭した。

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