on your mark1 | ナノ





on your mark1

 車が通ることのできない狭い路地を通り、直広(ナオヒロ)は家へと帰ってきた。長屋の住宅が並ぶこの地域は、路地こそコンクリートできちんと舗装されたが、対面で並ぶ長屋の間はまだ土が残っている。直広の住んでいる家は向かって右側の奥から二番目だった。築三十年以上は経過しており、モルタルの壁に亀裂が見える。トイレはあるが、風呂はなく洗濯もコインランドリーが頼りだ。
 直広はここに家族と住んでいる。母親が亡くなったのはずいぶんと昔だ。その時、直広は十八歳で、高校を中退して働いていた彼にとって、安い家賃で済むこの家から出る理由がなかった。
 夜勤明けの体は眠ることを求めているものの、隣人にあずけている甥を迎えに行かなければならない。まだ七時前だが、今年で七十を迎える鈴木はすでに起きている。
「鈴木さん、おはようございます」
 直広が引き戸越しに声をかけると、中から鈴木の声が聞こえた。彼女の趣味である鉢植えが所狭しと並んでいる引き戸前にたたずむ。
「おはよう」
 鈴木は足腰が弱くなり、杖が必要だが、瞳も声もまだまだ元気だった。彼女に甥の面倒を頼むのは気が引ける。本当はもう少しまともな仕事に就いて、甥をきちんとした託児所へあずけるべきだと分かっていた。彼女はここへ越してきた時からの仲で、直広の置かれた状況を誰よりも理解しているため、快く甥の面倒を見てくれる。
「史人(アヤト)はまだ寝とる」
 この辺りの長屋はどこも同じ造りだった。入ってすぐ左手に狭い台所とその奥にトイレ、そして六畳ほどの和室が二部屋ある。直広は、「お邪魔します」と靴を脱ぎ、布団の上で眠っている史人のそばへ寄った。史人は来月で三歳になる。夜泣きが少ない子だったが、言葉も極端に少なかった。
「これ、また作ったから」
 鈴木がタッパーに入れた煮物をスーパーの袋で包む。
「いつもすみません。ありがとうございます」
 史人を抱え、直広はおもちゃとおむつの入っている鞄を肩へかける。
「直広、あんた、顔色が悪いなぁ。今日は休み?」
 頷くと、鈴木は、「昼間もし、休みたかったら、史人、連れておいで」と言われた。直広は鈴木の心づかいに感謝し、もう一度、礼を言った後、自分の家へと入る。史人を抱いたまま、押入れから布団を引っ張り出し、彼のことを寝かせた。鞄の中にある彼の靴を玄関へ置き、一息つく暇もなく、おむつを確認する。鈴木が交換してくれたのか、清潔なままだった。
 直広はもう一つの和室へ続く襖を開ける。弟の靴はなかったが、彼は土足のまま上がることもあり、帰宅しているかもしれないと思った。畳を嫌う彼の部屋は木目調のジョイントマットが敷き詰められている。食べ散らかしたゴミや脱ぎ捨てた衣服がそこら中にあった。時間が許せば片づけるが、弟は一日足らずで目の前の状態にしてしまう。むき出しのままの黒いマットレスの上にも、ゴミが散乱していた。
 とりあえず窓だけ開けた後、直広は台所にある小さな冷蔵庫を開けた。先ほど鈴木からもらった煮物を入れる。夜勤前に食べていたジャムパンの残りを取り出して、立ったまま食べた。トイレはあるが風呂がないため、台所は洗面所を兼ねる。口を動かしながら、直広は百円ショップで購入したスタンドミラーへ自分を映した。
 鈴木の指摘通り、顔色が悪い。月曜は一日休みにしているものの、週一回だけの休みだけでは、なかなか疲労回復とまではいかない。日中は十時から十九時まで喫茶店で働き、週三日はインターネットカフェで二十二時から朝六時まで稼ぐ。十代の頃は疲労を感じなかった。二十九歳になった今は、しんどいと思うようになった。
 直広は歯磨きを済ませ、史人の隣へ寝転ぶ。母親が亡くなった後、弟と協力して生きてきたつもりだったが、それは自分の勘違いだった。弟との仲はこじれるばかりで、その最たるが史人の存在だ。それでも、直広はいつか史人が自分達の仲を取り持ってくれると信じている。
 睡魔はすぐに襲ってきて、直広は束の間の休息に目を閉じた。
 
 史人の泣き声で目を覚まし、直広はおむつの中へ手を入れた。おむつを替えなければならないが、彼が泣き出した原因はそれだけではなかったようだ。
「健史(タケフミ)、おかえり」
 少し開いている襖から、弟の健史が見えた。どたどたと歩く音が聞こえ、また土足で上がっているな、と思った。直広は新しいおむつへ手を伸ばし、慣れた手つきで史人を立たせ、あやしながら、おむつをはき替えさせる。史人は言葉が遅い上に、まだつかまり歩きしかできない。歩いても二、三歩のため、休みの日はなるべく一緒に過ごし、歩く練習をさせていた。
「はい、おしまい。もう泣かない」
 抱き寄せて、背中とお尻を叩くと、史人は泣きやんだ。時計は十一時になるところだ。
「リンゴジュース、飲もっか?」
 頷く史人の頭をなで、直広は立ち上がる。
「あ」
 立ちくらみがして、すぐにその場へしゃがんだ。畳へ手をつき、深呼吸を繰り返す。


2

main
top


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -