spleen80 | ナノ





spleen80

 明史は口の中に広がる甘い味に、昔のことを思い出していた。兄がいる時は焼き菓子を用意していた母親は、兄がアメリカに行って以来、明史のためにケーキを焼いてくれたことはない。明史の誕生日は四月中旬であり、兄からはメールとプレゼントが寮に届く。だが、両親からは、「プレゼントは何が欲しい?」と聞かれたことすらなかった。
 家に甘いものが用意してあることが嬉しくて、明史はつい涙を流していた。ここにある菓子類は、志音のために用意されたものだったが、それでも、こうして甘いものを口に入れることができて、明史はとても嬉しかった。
「家に、帰ってきた時、甘いものがあると、落ち着くから、それで、ちょっと安心したっていうか、そんな感じ」
 悲しみからではないと説明すると、志音は笑って、抱き締めてもいいかと聞いてくる。頷くと、彼の腕が背中へ回る。後頭部をなでられ、髪や耳に何度もキスされた。先ほどの伊坂の言葉が明史の心をくすぐる。自分を志音の大切な人だと言っていた。
 明史は以前のように自らの腕を、志音の背中へ回そうと上げる。だが、結局、自分からは抱き締められなかった。
「明史、俺さ……」
 志音の声に顔を上げると、彼の手が明史の手を握った。
「今、おまえのことすげぇ好きだって、実感してる」
 端正な顔が近づき、明史は目を閉じた。触れるだけのキスに胸が痛くなる。
「紅茶でも飲むか?」
 頷くと、志音が扉のそばのパネルへ近づき、キッチンにいる使用人へ紅茶を頼み始めた。明史は別の焼き菓子を手にして、志音のほうを振り向く。彼が笑った。ブラウニーを食べながら、窓のほうへ寄る。下は裏庭になっており、空色のプールが見えた。
「兄貴達の子どもが来たら、よくそこで水遊びしてる」
 隣に立った志音が清潔に保たれているプールを見ながら、手にしているフィナンシェを頬張る。
「甥が二人で五歳と三歳、姪がまだ二歳だったか……とにかくうるさいから、来たら移動するぞ」
 志音に兄が二人いることは知っていたが、すでに二人とも結婚しているとは知らなかった。さらに子どもがいることも初耳だ。
「移動するって、ここに閉じこもるんじゃなくて?」
 志音は笑みを浮かべると、明史の腰あたりへ触れて、そっと体を寄せた。
「あぁ、別のところ」
 詳しく聞こうと口を開いた時、ノックの音が響いた。志音は使用人を中へ入れず、自ら扉まで取りにいく。紅茶の香りに目を閉じると、「砂糖なしだったよな?」と確認された。
「うん」
 志音は自分の紅茶へ角砂糖を二つ入れて、スプーンで混ぜた。
「そのクッキーもなかなかうまい」
 明史は志音が教えてくれたクッキーを取って、袋を開ける。ドライフルーツが散りばめられたクッキーは、ざくざくとしていて確かにおいしい。
「さっきの、別のところって、どこ?」
 志音はソファの背もたれに上半身をあずけて、だらしなく足を開いていた。そうしていると、普通の高校生に見える。車から降りる明史に、手を差し出してきた志音の対応は、上流階級出身の洗練された動きだった。
「土田にあるマンション。広い家より、そっちのほうが落ち着くだろ?」
 高級マンションが建ち並ぶ地域を出されて、明史は簡単に頷くことができなかった。志音は少し足を閉じて、上半身を起こす。
「この三日間、夜、うなされてた」
 まったく覚えがなくて、首を傾げる。志音が揺れた前髪へ触れてきた。彼の指先が目の下へ移動する。
「クマ、できてる」
「ちゃんと寝てる。大丈夫」
 志音が、ほら、という顔をした。
「また言ってる」
「ほんとに、だい……」
 明史は口を押さえた後、小さく息を吐いてから笑った。確かに、「大丈夫」が口癖になっていた。

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