ふくいんのあしおと 番外編10 | ナノ





ふくいんのあしおと 番外編10

 罰なんかない、と朝也は言った。
 愛してる、と朝也はささやいた。
 和信、と朝也は呼んでくれる。

 重たい足を引きずって、駅からマンションまで歩いた。鍵を開けると、すぐに中から扉が開く。
「おかえり」
 鍵の音で分かるらしい。朝也が大きな腕を広げて玄関先で抱き締めてくれる。胸いっぱいの安堵を感じながら、「ただいま」と告げた。通勤片道二時間は正直きつい。だが、和信は仕事を失うことが怖かった。
 朝也がこちらへ戻ってから、一年ほど経つ。それまでの五年がかすむほど、彼との同棲生活は充実していた。和信は今、間違いなく幸せだった。一人で泣いた夜と比べられないくらい、満たされていた。ただ、朝也の存在が愛しく心強いと思うと同時に、失うのではないか、という恐怖をもたらしている。
 いつか朝也に過去のことが知られたら、と考えると、和信は憂うつになった。彼は気にしないと言う。味方でいると言う。それを信じているのに、暗闇の中、目を閉じると初恋の相手が出てきて、和信をもてあそんだ。
 夜中にうなされて起きると、和信はたいてい自分のいる場所が分からなかった。隣で眠っているの朝也の温もりから逃れ、部屋の端へ移動する。怖くて仕方なかった。泣いていることに気づかれたら、罰を与えられると思った。母親の責める声が聞こえてきて、耳をふさぐ。
「ぶ……かず、ぶ……」
 腕に触れられて、視線を上げると、朝也の姿が敬也に重なる。二人はあまり似ていない兄弟だった。混乱している時は朝也でなくても、男性であれば誰でも敬也と重なり、ひどいことをされるのではないかと緊張した。朝也がしゃがみ込み、優しく抱き締めてくれる。
「大丈夫。和信、大丈夫だから」
 小さな拒絶に、朝也が気づかないはずがないのに、彼はどんな時でもいらいらしたり、声を上げたりしないで、和信のことを抱き締めてくれた。次の日に仕事があるのは同じだ。だが、彼は残業もせず、家に帰り、自分のために夕食を作って待っていてくれる。愛され、甘やかされているにもかかわらず、彼に何も返せない自分が嫌になる。

 朝也が戻ってから、和信はスロットへ行くのはやめた。酒と煙草は互いに楽しむため、やめる必要はなかった。梅雨明けの少し後、まだじめじめとした空気が漂う中、和信はピッキング工場の近くでコンビニへ寄った。すでに退勤済で、家のそばのコンビニで買ってもよかったが、その日はたまたまそこへ寄った。
 煙草と新発売になっていたスナック菓子が入った袋を持ち、和信は駅へ向かう。夜、うなされていることや泣いていることは、あまり記憶になかった。朝也の顔色から察するに、ひどくなっていることは分かっていたが、原因があるとすればそれは彼を失ってしまうのではないという不安からだと思った。
 それでも、朝也が励ましてくれることで、和信は少しずつ強くなっている気がしてた。彼はどんな時でも和信を優先してくれるからだ。
 駅へ続く道は薄暗いが、人通りはそれなりにある。携帯電話が震えたのを感じて、歩きながら確認すると、朝也からのメールが届いた。夕飯の献立を知らせるものだった。思わず笑みを浮かべると、その携帯電話を突然奪われた。驚いて、隣の男を見る。知らない男が笑っていた。だが、次の言葉で思い当たる。
「もう金には困ってないの?」
 血の気が引く、という言葉通り、和信は全身から血が流れていってしまうような気分に陥った。

番外編9 番外編11

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