ふくいんのあしおと46 | ナノ





ふくいんのあしおと46

 朝也との連絡はメールだけにしている。声を聞いたら、弱音を吐きそうで、彼から何度か音声通話がしたいと言われたが、正直な気持ちを書いて返事をしていた。五年の日々は決して楽なものではなかった。
 和信はキッチンに立ち、一人分の食事を作る。母親と縁を切ってから、一時期、あまり眠れなくなった。岸本達に相談し、励まされ、忙しい毎日の中で何とか乗り越えたものの、不意に幼少の頃のことや、彼女の恋人とのキスを見られた日のことを思い出す。そういう時は一人でいることが辛くて、音のあふれているパチンコ屋へ行った。酒も煙草も結局、やめられなかった。
 ピッキングの仕事は続けている。体を動かす仕事のほうが、気が紛れたため、和信は登録していた派遣会社からの仕事の紹介を断っていた。今でもその判断でよかったのだと思う。給料は少し安いが、職場の人間関係も良好で、突発的な残業も少ない。
 まだ人の動きには過剰なほど反応して、とっさに目を閉じて屈んだり、腕で頭を隠したりすることはあるが、呼吸が乱れることは少なくなった。和信はテレビをつけて、サバの塩焼きとインスタントの味噌汁を食べる。じゅうたんの上に置いてあるWG社発行の雑誌へ視線を落とした。朝也は企画担当で記事じたいは記者達が書いている。それでも、彼からどのページを彼が企画したのか聞いて、雑誌の日本語翻訳を読むことが楽しみだった。明日から、また仕事だ。和信は白飯の最後の一口を食べて、立ち上がった。

 青い作業着にはグレイのラインが入っていた。着替えが面倒なのと、人前で脱ぐ気もなく、和信は長袖の制服の上からコートを羽織った。制服の帽子は鞄へしまい、同僚達へあいさつをしながらロッカーを出る。電化製品の部品を仕分けしている職場は、クリスマスの雰囲気だけでも出そうと、タイムカードを押す出入口前に小さなツリーを飾っていた。
 和信は自転車に乗り、部屋へ帰る前に夕飯の買い物をした。パンコーナーのところに大量に並んでいるケーキを見て、せっかくだから、とカットされ、二切れずつ売られているショートケーキをカゴへ入れる。
 階段を上がり、部屋の扉の前まで来ると、和信は鍵をポケットから出すため、一度、買い物袋を置いた。コンクリートの階段を上がってくる足音が聞こえる。あまり顔を合わせることはないが、両隣の住人のどちらかだと思った。靴音が聞こえるということは革靴でも履いているのだろう。
 目の端に近づいてくる人影が入る。和信は奥の住人だと思い、あいさつをするため、顔を上げた。足元はやはり革靴で、センスのいいロングコートを着ている。和信が視線を彼の顔へ向けるより先に、彼が言葉を発した。
「ここに、多田和信って住んでる?」
 和信は涙をこらえて頷く。だが、涙はすぐに頬をつたった。
「俺、窪田朝也。二十七歳になっちゃった。五年近く、恋人を待たせてるんだ」
 足音が近づく。目の前にいる朝也は、以前と同じようにはにかんだ笑みを浮かべていた。彼がそっと抱き締めてくれる。
「ただいま、和信」
 涙しか出ない状態で、和信は朝也の背中に腕を回した。出会った頃より、深く大きく前進した朝也からは、異国の香りがした。岸本の謎かけを思い出し、和信はようやく彼が言いたかったことを理解した。
 自分には価値がなく、何も持っていないと思っていた。だが、朝也がいる。朝也は自分にないものを持っている。和信にも彼と知り合う前、知り合ってから、そして、その後、経験してきたものがある。
 嬉しいことも悲しいことも、分かち合えばいい。共有することで、互いを補い、強く深く結びついていく。朝也は和信にないものをたずさえて戻ってきた。かけるべき言葉は一つしかない。
「おかえり」
 和信は腕に力を込めて、もう一度、その言葉を紡いだ。
「朝也、おかえり」



【終】

45 番外編1(朝也視点)

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