ふくいんのあしおと45 | ナノ





ふくいんのあしおと45

 蝉の声を聞きながら、階段を上がり、部屋の扉の前で鍵を取り出した。買い物袋をキッチンまで運び、冷房を入れる。和信は狭いリビングにあるテーブルの上のノート型パソコンへ手を伸ばした。うちわであおぎながら、電源を入れる。
 画面に出てきたメール通知に顔をほころばせる。マウスをクリックしてメールを開くと、休みの日にカナダまで行ってきた、とバンフ国立公園内の写真が添付されていた。写真の一枚には真っ黒に日焼けした、屈強そうなサングラスをかけた男が写っている。朝也だった。和信はそっと指先で触れて、マウスへ手を置いた。
 朝也が借りたこの部屋の名義は、和信になっていた。彼の口から、部屋を借りる相談を岸本にしていたと聞いた。そうでなければ、短期間に部屋を見つけられなかっただろう。それに、半年後には出ていくかもしれない人間に、そうそう簡単に部屋を貸してくれるわけがない。
 朝也は和信が日本に残ることを想定して、名義を和信にしていた。岸本の紹介のため、驚くほど家賃が安い。朝也がワシントンDCへ発ってからも、岸本とは頻繁に連絡を取っていた。五年も経った今、返済はすでに帳消しにされている。実際には朝也をアメリカへ見送ったその年の冬には、返済の必要がなくなった。岸本が予想していた通り、母親と平川が別れ、平川から回収し始めたからだ。
 和信は岸本に呼び出された日のことを、まだ鮮明に覚えている。彼はいつものように含みのある笑みを浮かべ、紙幣の入った紙袋を差し出した。それが金であることは分かっていたが、どうして差し出されているのかは分からなかった。
「和信の金、預かってただけだろう?」
 岸本の言葉をすぐに理解し、和信はその場で泣いた。紙袋の中には、最初に払った利息分の三十万も入っていた。毎月、微々たる金額でしかなかったが、彼は和信が返済した金をそのまま置いていた。
 朝也を自分で送り出したくせに、寂しくて、苦しい日々を送っていた和信に、岸本の優しさは光を灯してくれた。
「これで月一回、会わなくて済むとか思うなよ?」
 泣き過ぎて礼も言えない和信に、岸本はそう言いながら、隣へ座った。
「これからも、連絡しろ。何かあったら、いつでも相談しろ。それと、今ここで決めて欲しいことがある」
 涙を拭って顔を上げると、岸本が手を差し出した。
「携帯、出せ」
 ポケットの中の携帯電話を渡した。岸本は電話帳を操作して、母親の番号を出した。
「今後一切、母親と連絡を取らない決意をして欲しい」
 和信は緩く首を振り、拒否した。平川がいないなら、次の男を見つけるまでの間、援助しなければ、彼女は生活できない。岸本は携帯電話を閉じて、テーブルへ置いた。
「おまえ、朝也に待ってるって言ったんだってな。あいつはその言葉を信じてる。おまえに見合う人間になって、こっちへ戻ってくるぞ。おまえは少しも成長しないつもりか?」
 黙っていると、岸本に肩をつかまれた。
「自分のために進めないなら、あいつのために進め。言っただろ? どんなに傷ついても先に進むしかないって。おまえが欲しかったものは手に入らなかった。でも、手に入れたものもある。ないものを数えるより、あるものを数えろ。おまえの持ってるものは?」
 ない、と言いたかった。持っていないものが欲しかった。
「まず、朝也がいるだろ。それに、俺。朝也も俺も、おまえの知らないことを知ってる。おまえも俺達の知らないことを知ってる」
 謎かけのような言葉だった。続いた言葉に、和信は母親の連絡先を削除して、彼女からの連絡を拒否する決意をした。
「おまえは一人じゃない」
 和信は携帯電話に手を伸ばして、自分でデータを削除した。

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