ふくいんのあしおと35 | ナノ





ふくいんのあしおと35

 握られた右手首が痛い。周囲の好奇をはらむ視線に耐えかねて、和信はうつむいた。朝也を巻き込んでいる。
「けい、移動しよう? 俺、部屋に」
「ダメだ」
 朝也が落ち着いた声を出す。彼は敬也の手を取り、和信の腕から拘束を外した。
「兄貴、お父さんもお母さんも待ってる。限界を感じたら、実家に戻って。俺は……もう兄貴を追いつめたりしないから」
 敬也の拳は震えていたが、その拳が振り上げられることはなかった。彼はコートを手に店を出ていく。
「敬也」
 和信が追いかけようとすると、朝也がうしろから手を引いた。
「和信、追いかけちゃダメだ」
 支払いを済ませた後、外へ出てから、朝也が静かに言う。
「DVはなかなか治らない。本人に自覚がないなら、なおさら難しい。おまえが戻っても、同じことを繰り返すだけだ」
「でも」
「でも、はいらない。頼むから、もう傷つかないで」
 傷ついているのは敬也だと言いたくて振り返った。だが、その意味では朝也も同じだ。もう追いつめたりしない、と言った彼の心境を思うと、苦しい。和信はにじんだ視界を拭う。
「風邪引くから、着替えないと」
「友達んち、行くから大丈夫。岸本さんとおまえを家まで送る約束してるんだ。タクシー拾おう」
 二人でタクシーへ乗り込んだ後、新家沢までの道のりをずっと無言で過ごした。助けたいと思っても助けられないことはある。敬也だけではなく、朝也だって思い悩み傷ついているが、その悲しみを暴力という衝動に変換して発散していない。強くある、ということは難しいことだと思った。
 エレベーターで最上階まで上がると、男二人がすぐにこちらを確認した。すでに顔見知りのため会釈すると、あいさつを返してくれる。インターホンを鳴らすと、中から岸本が出てきてくれた。
「おかえり」
 岸本は和信へ素早く目を走らせ、どこも傷ついていないかを確認した後、朝也を見た。
「コーヒー?」
 朝也が頷くと、「シャワー浴びていけよ」と中に招き入れる。岸本は朝也を浴室へ案内し、着替えを用意した後、リビングダイニングのカウチソファへ座った。
「うまく話し合えたか?」
 食べかけのバニラアイスのカップを手に、岸本が尋ねてくる。和信はどう説明していいのか分からず、ただうつむいた。
「後味の悪い別れって、あるよな」
 ぱくぱくとバニラアイスを口に入れて、くちびるをなめた岸本が、少し姿勢を崩す。
「だけど、皆それぞれ、他人には分からない問題抱えて生きてる。おまえだって、自分は平気って思ってるかもしれないが、体に残った傷痕、見ろよ。それ以上に心は傷ついてるはずだ。それでも、この先、やっぱり進み続けるしかない」
 煙草をくわえた岸本は小さく笑う。
「自分を責めるな」
 和信は頷いた。岸本の言葉はいつも染み入るように心へ響く。母親のことも借金のことも暴力のことも、すべて苦い出来事だった。それがあったからこそ、素晴らしい人間にも出会えた。そう思うと差し引きゼロだ。
 シャワーを浴びた朝也が礼を言いながら出てくる。友達のところに泊まっている彼は、今夜もそちらへ帰ると言った。岸本へ借りた服を返す約束をした後、彼は早々に玄関へ移動する。和信は引き留める言葉を思いつかず、「また連絡する」とだけ言って見送った。

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